源実朝に出来上がったばかりの新古今和歌集を持参してきた人物、内藤朝親!(知親とも書く)
一体どのような人物だったのだろうか?
武家家伝 津久井内藤氏 さんにページより ↓
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/tuk_naito.html
『津久井城主内藤氏は北条氏の重臣として、関東の戦国時代を生きたが、その出自、系譜に関しては不明なところが多い。わずかに、藤原秀郷の子孫と称する内藤氏の末と伝えているばかりである。内藤氏の出自を『城山町史』は、文治三年(1187)京都の治安維持にあたった御家人の一人である内藤四郎の家人内藤権頭親家であろうとしている。のちに鎌倉に下った権頭親家は、雪之下に屋敷を与えられて居住した。
この権頭親家の子孫が鎌倉幕府滅亡後の南北朝の内乱期を生き抜き、室町時代にいたって鎌倉公方足利持氏に仕えた。その後、永享の乱、享徳の乱と続いた争乱で、鎌倉公方家が幕府と対立を続けるなかで、上杉氏に仕えるようになったようだ。』
津久井内藤氏の考察 / 黒田基樹『戦国大名領国の支配構造 岩田書院』 というのがあるそうで、機会があれば読んでみたい!と思っている。
内藤氏の記述のあるものとしては、
https://www.rekishijin.com/20188
『実朝は、母・政子や祖父・時政の勧める結婚を拒否して京都の前大納言・坊門信清(ぼうもんのぶきよ)の娘を娶(めと)った。その折に挙式に付き添ってきた内藤知親(ないとうともちか)が藤原定家の和歌の弟子であった。実朝は定家が編んだ『新古今和歌集』を希望し、元久2年(1205)4月12日、実朝は生まれて初めての和歌12首を詠んだ。』
国史大辞典 https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=2140
『早く元久二年四月に十二首を詠じ、歌会もしばしば催した。最初の師は藤原定家の弟子内藤知親と推測されているが、のちには定家に批評を請い、定家から『詠歌口伝』や『万葉集』を贈られている。鴨長明をたびたび引見したのも、和歌への関心に基づく。』
この記事にも 「いざ鎌倉(24)」様のページ より
建永元(1206)年2月4日、北条義時の山荘に雪見に出かけた実朝は歌会を開き、北条泰時・東重胤・内藤知親といった側近が参加しました。
また、承元2(1208)年5月29日、御台所の侍で京からやってきた藤原清綱が家伝の『古今和歌集』一部を実朝に献上しています。
https://note.com/kiyosada/n/n5b4502c2f536
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御台所の侍であった内藤知親のようなので、実朝とも近く、実朝に成り代わって和歌を習いに行ったのかもしれない。
この人物がいて、定家とつながり、鴨長明にも足を運んでもらい、と、実朝がだんだんと和歌への道にのめり込んでいくさまが見える。
そのきっかけは、源頼朝の和歌であったかもしれないが、様々な閉塞感のある中、唯一自由に自分を投影できたのが和歌だったのかもしれない。
矢部氏や三浦氏とつながる津久井氏がいるが、そことこの内藤氏は関係はないのだろうか?
気にかかる【内藤氏】である。