前回の久野氏と長谷川氏が同族であった可能性もある…という事で、久野氏を調べていると「原氏」とのキーワードに当てはまった。「成海」である。
この記事は下書きのままお蔵入りしていたのだが、「久野氏」に関係しそうなので、書いてみようと思う。
尾張国二宮の原氏は、良峯姓であった。
そして上総介となっていた。
ここでふと思い出したのが、藤原黒麻呂 774年に上総介となっている。
さらに、その貞嗣の室(藤原範兼娘)所領(成海荘)と二宮社務を交換し、藤原範兼娘が二宮社務を掌握することとなっているのである。
この上記のDBのなかの建保3年(1215年)権大宗頼室、という部分を考察してみる。
権大納言であった【葉室宗頼】の室は藤原兼子であった。
兼子は、藤原範兼の娘で、後鳥羽天皇の乳母でもあった。
wikipediaによると「父・範兼は永万元年(1165年)に死去し、兼子ら子供達は幼くして残されたため、叔父・範季に養育される。一門は後鳥羽天皇と関係が深く、兼子も乳母として仕えた。無名の女性であったが、後鳥羽天皇の信任が厚く、その成長と共に重用され、正治元年(1199年)、45歳で典侍となり、政治の表舞台に現れるようになる。独身であった兼子はこの頃に権中納言・藤原宗頼と結婚している。
建保6年(1218年)正月、鎌倉幕府の将軍・源実朝の後継問題を相談するため、熊野詣と称して上洛した北条政子と対面する。兼子の推挙により、政子は出家後の女性としては異例の従三位に叙せられた。兼子は養育していた頼仁親王を次期将軍に押し、政子も実朝の妻坊門信子の甥である親王を実朝の後継者とする案に賛成し、二人の間で約束が交わされた。この年の11月、兼子の後押しを受ける政子は従二位に昇った。
承久元年(1219年)、実朝が暗殺され、幕府と後鳥羽上皇の対立が深まると、親王の鎌倉下向を拒否する上皇は、兼子を遠ざけるようになる。最終的には西園寺公経の奔走により、摂関家の子息・藤原頼経が次期将軍として鎌倉へ下向した。2年後の承久3年(1221年)、幕府打倒の兵を挙げた後鳥羽上皇によって承久の乱が起こる。上皇は幕府軍に大敗し、倒幕側の中心となった兼子の一族も処刑されるなど連座を受け、後鳥羽上皇・順徳上皇は配流となった。」
頼仁親王は「承久3年(1221年)の承久の乱の結果、父の後鳥羽上皇らが配流されると、親王もこれに連座して備前国児島へと流された。同地において薨去したとされ、児島高徳の曽祖父であるとも伝わる。」…道乗の父である。道乗の母は佐々木氏の加地信実の娘とされ、児島氏の祖となっているようである。
蛇足だが、
加地信実の息と思われる「源実秀」が富木常忍に出した文書が残っている。
話を「良峯姓原氏」に戻すと、藤原南家と原氏とは血縁関係があって、原氏との所領交換となったのではないか…という事である。(血縁関係がなくても所領交換はありえたかもしれないが…)
熱田神宮宮司家も【季範】から「藤原南家が入り込む形」となっている。
ここで、二宮(宮司家良峯原氏・丹波氏など)も手のうちに入れることが念頭にあったのではないだろうか?
尾張国の神社一宮と二宮とは婚姻関係もあり、親しい関係であったようである。
両方を藤原氏の力のもとに寄せようという思惑が1215年にはあったのではないかと思う。
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そして、今日見つけた「久野氏」
http://www.ann.hi-ho.ne.jp/oshd/menmen.htm
始まりから読むと、原氏との関りがあることがわかる。
「1193 久野(久能)四郎忠宗 駿河藤原南家為憲流入江氏の末流原氏の一族、久野家の入り婿か?忠宗兄の原宗俊は遠江原谷(掛川市)に住す(曽我勲功記+岸和田久野家文書)」
「1262 久野讃岐守定全 尾張藩久野家の先祖、遠江原田庄細谷村[掛川市]に原氏庶流として所領を有す(諸氏伝略稿+東寺百合文書)」
「1270頃 久野次郎太屋仲 本国駿河、名古屋鳴海久野家3代、成海神社神主、武官を兼ねる(鳴海久野家系図)」
「久野(久能)三郎左衛門宗能 宗明次男、7代遠江久野城主、徳川家康に仕える」
この宗能が「宗安」であり、息も入道となった時に「宗安」を號す。
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この久野氏は良峯姓原氏と近かったと思う。
しかし、本能寺にいた原宗安ではないように思える。
宗安の父(義父)という「道受」も、宗安の弟「清安」も今のところ、情報は出てこない。
しかし、本能寺の変を目の前で見ていた人物は二人以上はいたのである!
「日海」(算砂)と「宗安」は、その後も生きている。
日海と碁を対局していた「(林)利玄」は日蓮宗本能寺の僧侶であったそうだ。
この人もその後も生きているはずである。
明智憲三郎の本によると、もう一人「弥助」がいたそうである。
そして【本能寺】は日蓮宗のお寺であったことを今回知った。
因みに「宗安」かと思われている原志摩守胤重は、1630年に没している。
あと昨日久能山のお守りが気になって調べてたんですけど家康と久能氏もちょっと調べないとなあと思っていました。変換で久野と九能ってのも出てきたんでク(久と九)がまた気になりますね。久米というのも興味出てくるんですけど、九米とか九目とか。古代だと久留とか来目とかも関係してきたら面白くなりますよね。
あと政子さんが出てきましたね、その間でここも幕府と天皇との間を両方と関わる人がとても気になるんですよね、個人的には。
ちょうど調べたい事の添付サイトがあるので見てみます。ありがとうございます。
九州の九里→久里
神奈川九里浜→久里浜
等、変換されていると思います。
九能利・久能利・苦能離
九乗・九法・九郷・久徳・などなど、まだ他にもあるかもしれません。
長いイメージと久しくのイメージが似ていることもあって、もとから近い関係なのかもしれません。
佐々木京極と佐々木六角に分かれた際に、別な漢字にして読み方も変えた?とかあるのでしょうか??
昨日漆喰のテープなんてCMでやっていましたけど人間との関わりや機能としての漆喰も意味ありそうですよ。
文化か継承はあるんですしょうね。伊豆では多賀さんに栗奉納してきたんですけど明日栗の日ですね。どこに行くべきか?迷います。
接点があるには多分私ではないので感覚よりも分析のが大事なので失敗しそうなのでじっくり考えてみます。
栗今出てきてるのかな?クノリという音も大事そうですよね、あまり考え過ぎず流されてみようと思いますね。
あくまでもこちらに関わる事で直結して役立つ情報じゃないかもしれませんけど多分いつかヒントなりトラップ回避やトラップそのものの見極めになるかとは思います。入江長八さんは職人さん、松崎行った時は気付きませんでしたがもったいない事してましたよ。江と長と八の文字もっているのもびっくり。今日のTVでは高田純次さんが弁天さん所で私も好きな七福神みくじして出たのが寿老人さんその時は思ったのが出ないんだよねけどそのあと意味持つんだよねって思ってすっかり忘れていました。出かけたかったけどでかけられずでびっくり、あそこが寿老人さんだったかあと。鹿もちゃんと紹介されていましたよ。多分九里さんにも鹿が関わってくるとも思いますね。去年は確か台風だかの後で電車止まっていたかも?今年の9/9はいい判断できるか?じっくりやりますね。
記事に関係ないかもなので見て頂ければ十分ですからね。
木方様
【長八】の名前は、記念館で知っておりましたが、入江さんだったのですね。履歴を見ると狩野派にも習いに行っているよう。しかも左官棟梁(とうりょう)関仁助に弟子入りしている。
関氏も狩野氏もどこかで関係があるかもしれません。
九里の日、覚えていてくださって、ありがとうございます!!
本日、栗のお菓子をたくさん食べました!