藤原黒麻呂の母は、藤原 弟貞(ふじわら の おとさだ)の娘 = 初名山背王(やましろおう)の娘 と云う。
巨勢麻呂は山背王(長屋王と藤原不比等の娘の間の男子)の娘との間に黒麻呂を産んだ。
其の黒麻呂が東国 藻原の地を開拓し、領主となった。
では、【藤原 弟貞】とは?
父母 父:長屋王、母:藤原長娥子(藤原不比等の娘)
兄弟 膳夫王、桑田王、葛木王、鉤取王、安宿王、黄文王、弟貞、教勝、円方女王、賀茂女王
妻 あり
子 あり
特記
事項 子孫は永原朝臣。
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弟貞の父は【長屋王】
母は藤原不比等の娘、という微妙な位置に生まれている。
しかも黒麻呂の妻は県犬養氏とある。(810年に黒麻呂歿す。)
県犬養と云えば、県犬養美千代がいる。
敏達天皇系皇親である美努王に嫁し、葛城王(後の橘諸兄)をはじめ、佐為王(後の橘佐為)・牟漏女王を生む。
天武天皇13年(684年)に第一子葛城王を出生しているが、軽皇子(後の文武天皇)は天武天皇12年に出生しており、元明天皇と三千代の主従関係から、三千代は軽皇子の乳母を務めていたと考えられている。
三千代は元明から天武天皇の代から仕えていることを称されて杯に浮かぶ橘とともに橘宿禰の姓を賜り、橘氏の実質上の祖となった。県犬養一族のなかで橘姓への改姓は三千代のみであるが、三千代は改姓後も県犬養一族に属し続けている。
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その娘であった藤原 多比能(ふじわら の たびの、生没年不詳)は、藤原不比等の娘で、母は県犬養橘三千代。橘諸兄の正室、橘奈良麻呂の母。聖武天皇の皇后である光明皇后は同母姉にあたり、夫である諸兄は異父兄にあたる。藤原武智麻呂、藤原房前、藤原宇合、藤原麻呂、藤原宮子らの異母妹である。『続日本紀』に出てくる女官「藤原吉日」は多比能と同一人物とする説が定説となっている(角田文衛説)。
【橘奈良麻呂】
その息である【橘入居】(母は藤原宇合の娘か?)
その入居の息に【橘逸勢】(たちばな の はやなり)が登場する。
生誕延暦元年(782年)?
死没承和9年8月13日(842年9月24日)
この【橘逸勢】が和歌山の九里系図に載っていたのを記憶して下さっていらした方が一名!
和歌山熊野本宮大智庵にある九里のお墓を守って下さっていらした方である。(感謝です。)
その和歌山(奈良かもしれないが)にある九里系図を探し求めているが、なかなか見つからず、どのようにつながるのかが不明であるが、九里と橘は繋がっていたようなのだ。
九里の祖「経久」の父「中原」経任」に改橘次と註があり、今の所思い当たるのはその箇所!である。
黒麻呂の妻であり、藤原 春継(ふじわら の はるつぐ)の母である県犬養氏 藻原にも赴いていたのだろうか?
どのような人生を送ったのだろう。