九里 【九里】を探して三千里

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【九里】と【久利】 

2016-06-15 | 九里【只今の状況・まとめ】
不思議なことがある。

【九里】と【久利】

【中原】と【清原】

【甲斐小笠原】【石見小笠原】

【益田】と【京極佐々木】と【多賀】

*九里の出は、中原である。
*久利の出は、清原である。


*中原経行女が甲斐小笠原宗長に嫁いでいる。
*益田兼時女が石見小笠原太郎長経に嫁いでいる。


*京極佐々木から多賀に養子入りした「多賀高忠」を入れて五代目後に高福長右衛門なる人物がおり、そこに「萬治元年岩見国益田郡ニ荘司」と書かれた系図をweb上に見つけた。
これは、石見国益田郡のことと思う。
*多賀氏の出は、中原である。


*久利氏はのちに吉川氏に婿入りしている。
吉川経安:石見国邇摩郡久利郷の国人であった久利淡路守の息。久利余七郎と名乗った。石見吉川氏の当主吉川経典の養子となった。



*web清原氏の中の記事【久利氏】より(コトバンク)


…中世石見の国人領主。本姓は清原氏で,平安末期以後石見国邇摩(にま)郡久利郷を領し,久利氏を称した。清原氏と久利郷とのかかわりを示す史料的初見は,1063年(康平6)清原頼行を久利郷司職に補任した石見国司庁宣で,以後清原氏は久利郷をはじめ,仁満,雨(天)河内,佐摩各郷を領有した。…



【紀・清両党】より


…下野国一宮二荒山(ふたらやま)神社(俗に宇都宮大明神)に奉仕した紀氏,清原氏の子孫。とくに鎌倉~南北朝期,同神社座主宇都宮氏に従属して活躍した武士団の一つ。…


【外記】より


…外記の上首を局務(きよくむ)という。平安時代の半ば以降,大外記は清原氏・中原氏の2氏が世襲した。【早川 庄八】。…


【後三年の役】より


…1083年(永保3)から87年(寛治1)まで,陸奥守源義家と清原一族の間で戦われた乱。清原氏ははじめ出羽国仙北3郡の豪族であったが,前九年の役のあとで安倍氏の旧領の奥6郡をあわせて,奥羽最大の勢力になった。しかしその一族内部には複雑な対立が存在した。…


【五条家】より


…同族に南北朝のころに分かれた東坊城氏,江戸初期に分かれた清岡・桑原両氏がある。(2)は清原氏の支流,清原良枝の子頼元を始祖とする。五条氏【川田 貞夫】。…


【氷室】より


…また同注進状には,徳岡,松崎など山城の9ヵ所の氷室をはじめ,大和の都介,河内の讃良,丹波の神吉の氷室を挙げ,《延喜式》の地名と多少相違するものもあるが,おおよそ式の制度を引き継いでいると思われる。しかし氷戸制は律令体制の衰退とともに消滅し,鎌倉初期以降主水正を世襲した清原氏が,目代-預-供御人の系列を組織化し,各氷室に付属する氷室田を含めて,諸役免除,一円進止の禁裏御料所と称して知行した。これは宮内省大炊寮の御稲田(みいねだ)の知行形態に似ており,御稲田とともに室町時代末まで存続したことは,主水正目代の職にあった中原康富の日記《康富記》や広島大学所蔵《猪熊文書》所収の氷室文書などによって確認できる。…


【舟橋家】より


…清原氏の嫡流。船橋とも書く。…









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