ちょっとしたきっかけで、壮大な謎解きにつながってきました。
刮目天一(はじめ)様のブログ
https://blog.goo.ne.jp/katumoku10
https://blog.goo.ne.jp/katumoku10/e/b82f21ec1c7dda4e08e164877c069ff8
註(始めの方の「エキスパート」は間違いで、こんなに歴史(含む古代)を知らない者が九里を調べているのか~?という感じです。)
さて、今回私が気にかかったのは、
「松浦郡久利鄉、今久里村是なり。
鬼塚村*此郷のならん、鏡村の東に接す。
久里に大字原、中原、西原などあり。
風土記に見ゆる篠原村にあらずや。」の
久里の中に、中原があった・・・という記述。
更に、鏡村には神功皇后が鏡に自分の姿を映し(多分太陽と…)(池か川か海に)鎮めた伝承が残っている鏡神社がある。
久利・久里・九里はいつもこの女性と共に行動しているようにも思えてならない。
そして、清原か中原とともにもいる。
そして、何条何里という数え方の「九里」よりも、もっと以前に「久利・久里」はあって、近江八幡では洒落?で、〇条九里の場所に館を建てたのではないだろうか?
松浦郡での栗川が久里・久利郷となった。
とすると「栗」が一番始りの苗字だったのかもしれない。
そういえば、牛糞氏という苗字も本当にあった。
これで、刮目天様のブログの中の「栗・糞」は存在していたことになる。
臼は宇宿さんとか、臼がつく苗字はありそう。
蜂も八や鉢なども。
廣文庫より
石見国では「石」を「久利」というのだそうだ。
蟹と入力すると
なぜか「産屋」「彦火火出見尊」や「鸕鶿草葺不合尊ウガヤフキアエズノミコト」が出てきます。
蟹はうるさい奴で,掃き捨てられ…なので、どう関係するかは微妙でしょうか?
ブログ記事、楽しみにしています!
この件、尾張氏をちょっとだけ深堀してみましたので、ブログにする予定です。よろしければ、またコメントなどをお願い致します( ^)o(^ )
さるかに合戦をあらためて軽く読んでみました。
このお話は、どの時代にも当てはまる!
そのために長らく伝わってきたのですね。
今の時代にも当てはまりそうな…
民話の中にも、このように埋もれている歴史がまだまだありそうですね。
日向国高岡郷の牛糞氏は島津氏の祖鎌倉御家人島津忠久が鎌倉から連れてきたのですか(^_-)-☆
高岡郷ですが、東諸県郡(ひがしもろかたぐん)高岡村が宮崎市に2006年に合併されています。
島津忠久の出自ですが、?マーク付ですが、
父:惟宗広言(養父?)
母:丹後内侍(比企氏)?
忠久の母丹後内侍の夫は鎌倉御家人の安達盛長ですが、惟宗家に養子になったようです。
惟宗氏は讃岐国香川郡を本貫とする秦公(はたのきみ)とWikiにありました。ということは牛糞氏は武内宿禰(大国主久々遅彦)を祖とする波多氏の家人だったのではないでしょうか?
ということは大国主はスサノヲ牛頭天王の子孫ですから、やはりに睨んだとおり、スサノヲの時代からつき従っていた家人というか手下だった者たちでしょう!これがホントなら面白いですね( ^)o(^ )
臼と蜂はニギハヤヒの父イザナギの部下だった海部氏の祖のような気がしますよ。子孫は物部氏の家人でしょう。またヒントをお願いします(*^-^*)