昨日、佐伯氏が出てきた。源頼義に従った坂東武者とのことであった。
下記は「波多野氏」のwikipediaよりであるが、そこにも佐伯氏と源頼義の名前が出てきている。
平安時代末期から鎌倉時代にかけて、摂関家領である相模国波多野荘(現神奈川県秦野市)を本領とした豪族。坂東武士としては珍しく朝廷内でも高い位を持った豪族である。
前九年の役で活躍した佐伯経範が祖とされ、河内源氏の源頼義の家人として仕えていた。経範の父・佐伯経資が頼義の相模守補任に際して、その目代となって相模国へ下向したのが波多野氏の起こりと考えられている。経範の妻は藤原秀郷流藤原氏で、のちに波多野氏は佐伯氏から藤原氏に改め、藤原秀郷流を称している。秦野盆地一帯に勢力を張り、沼田郷・河村郷・松田郷・大友郷などの郷に一族を配した。
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藤原良方の娘が、平高望の妻となったことから東国とのつながりができたようである。
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糟屋荘(中世)
平安末期~室町期に見える荘園名相模国大住【おおすみ】郡のうち粕屋・粕谷とも書く初見は平治元年9月29日の太政官牒(安楽寿院古文書/県史資1-古818)に,鳥羽上皇が建立した安楽寿院領の荘園として「壱処〈字糟屋庄〉在相模国」とあり,美福門院の申請により朝廷・国府の使者の不入,および課役免除が承認されている
また年月日未詳の安楽寿院領諸荘所済注文(同前798)に「相模国糟屋庄 領所雅清卿」と見え,久寿元年12月日の立荘以来,当荘は安楽寿院領であり,承安年間に一時停廃したが,その後復活し,鎌倉期に入って承久~元仁年間頃には,本家は安楽寿院で,源雅清の領所であった本文書によれば,当荘は田198町1反300歩,畠55町3反60歩で,そのほか年貢と思われる4丈白布200反が記されているが,立荘当時の数字か,鎌倉期におけるものかは不詳さらに嘉元4年6月12日の永嘉門院使家知申状并御領目録(竹内文平氏所蔵文書/県史資2-1538)に,「相模国糟屋庄」が見え,鎌倉後期まで安楽寿院領であったことがしられる
また「糟屋系図」に「元方〈父良方在国之時出生,於糟屋庄成長,則号粕屋太郎〉」と見えることから(続群6下),左大臣藤原冬嗣の孫にあたる元方が当荘の開発領主で,荘名をもって糟屋氏を名のり,以来その子孫が在地領主になったことがわかる
平安末期~鎌倉初期頃には,当荘は糟屋郷を中核として,白根・善波・大竹・大山・板戸・坂本(関本)・富岡(朝岡)・櫛(櫛田)・四宮・城所などの諸地を内包し,本領主糟屋氏が一族に分給して惣領制的支配を行っていたものと考えられる
なお糟屋氏の名は諸書に散見するが,「吾妻鏡」治承4年8月23日条によれば,「糟屋権守盛久」は,石橋山合戦において,大庭景親らとともに平家方に属していたその孫の有季は,元暦元年2月5日の一の谷の戦いでは源義経率いる搦手の十七将の1人であったが,比企能員の女婿である有季は,建仁3年9月2日,能員の乱で敗死した(吾妻鏡)
なお建久7年の極楽寺鐘銘(中郡糟屋熊野社別当極楽寺旧蔵/県史資1-238)に,有季が梵鐘を荘内の極楽寺に寄進した旨が記されており,同寺は現存しないが,その跡には糟屋一族の墓所があり,板碑2基のほか中世の五輪塔・宝篋印塔が残っている
また,現在の伊勢原市上粕屋の御伊勢森丘陵で発見された中世豪族の居館跡は,有季の頃までの糟屋氏のものと思われ,江戸期の文政8年8月に作製された上糟屋郷絵図には,その近くに「ナカマル」「マトバ」などの小字が見える(堀江家文書)そのほか粟窪の丘陵にも有季の居館があったという伝承がある南北朝期以降になると,荘内の郷として豊部郷・秋山郷・こいるハのかう・小稲葉郷・高森郷・沼部郷・小鍋島郷などが見える
年月日未詳の足利尊氏・同直義所領目録(比志島文書/県史資3上-3141)に,「相模国糟屋庄〈同(貞直)〉」と見え,当荘は大仏貞直の所領であったが,建武中興の後,足利尊氏に与えられている同2年5月7日の足利尊氏寄進状(慈心院文書/同前3214)によれば,「糟屋庄豊部郷」のうち,雑色藤五跡の田地を尊氏が清水寺に寄進している
観応2年8月23日の粟生為広譲状写(尊経閣文庫所蔵文書/栃木県史史料編中世3)には,当荘内の豊部郷の土地が為広から同秋広に譲与された旨が記されている
同年12月6日の足利直義御教書には,「可下知糟屋庄政所」と見えるが,観応の擾乱に際して,円覚寺正続院領石田荘内の津奥村に,近隣地頭御家人の乱暴があったためである
さらに文和元年11月22日の仁木義長地頭職補任状(佐藤文書/県史資3上-4203)によれば,「相模国糟屋庄内豊部郷四分壱地頭代職」が佐藤元清に任じられている
延文2年後7月16日の後光厳天皇綸旨には「相模国糟屋庄領家職」が,源通春から中務大輔なる人物に譲られたことが記されているまた明徳5年6月24日の景徳寺住持善益等連署寄進状(円覚寺文書/同前5116)によれば,当荘内の小鍋島郷の瑞竜山景徳寺を円覚寺正続院末寺にするとあり,応永3年11月初吉の円覚寺正続院文書目録(同前5172)にも「糟屋景徳寺文書〈案〉并連署一通」と見える
なお真福寺所蔵大般若経奥書に「相模国東郡糟屋庄沼部祇薗宮」と見え,貞治3年11月14日に久弐なる者が,当荘内の沼部にある祇園宮に大般若経を書写施入している(相文1)
そのほか,年月日未詳の某書状に「かすやのしやうのうちに,こいるハのかうにて」と見えるが(金沢文庫古文書/県史資3上-4092),詳細は不明
また,応永3年10月15日の室町幕府管領奉書案,および同18年4月15日の同奉書(久我文書/同前5171・5434)によれば,当荘の領家職を久我具通・通宣父子が主張しており,幕府により安堵されている応永19年8月21日の沙弥道源寄進状写(相文/同前5449)によれば,当荘内の高森郷を大山寺に寄進している
また,宝徳2年と思われる5月27日付の徳本畠山持国書状写(栃木県史史料編中世3)に「相残軍兵引退糟屋庄畢」と見え,太田備中守資清・長尾左衛門尉景仲が,由比浜において千葉新介・小田讃岐守らと戦ったところ,敗北して当荘内に退いたことがしられる
同様の記事は「鎌倉大草紙」にも見える(群書20)この宝徳年間頃,扇谷家上杉持朝は,荘内に居館を建てており,さらに奥まった荘外七沢に城を築造していた長禄2年8月日の板倉頼資禁制(西来庵文書/県史資3下-6264)によれば,「相州糟屋庄沼部郷内稲荷田」が,鎌倉建長寺西来庵領として,乱暴狼藉を禁じられている
また文明18年7月26日,「永享記」に「扇谷殿定政相州糟谷へ被立御馬道灌を退治し給ふ」とあり(続群20上),扇谷家定正が,執事太田道灌を殺したのは,当荘内の居館で(梅花無尽蔵),糟屋館と称されていた(新編相模)
また長享2年2月には地内の実蒔原で,定正と上杉顕定とが戦っており(永享記),この時の戦死者を葬ったのが鎧塚である(新編相模)
延徳元年3月1日の上杉定正書状案写(古証文2/県史資3下-6385)に「老拙廿余年於糟屋・河越,旦暮之雑談」と見え,定正は久しく当地の館に居住していたと思われる
また,「梅花無尽蔵」に「出関本宿糟屋,是日渡毬子河」と見え,万里集九が文明17年9月30日,当地に宿泊したことがわかる(続群12下)
さらに,集九は太田道灌と交遊があり,道灌のために,「太田二千石春苑道灌入相陽糟屋之府第匠作君之幕」と祭文をよんでいる(同前)
道灌の死後も,山内・扇谷両上杉家の抗争は続き,「北条記」には両家の不和の様子が記されているが,そのうちに「定政,朝良は糟谷に在なから,河越に曽我を籠め」と見える(続群21上)
なお,当荘の鎮守は八幡宮で,高部屋神社とも称し,至徳3年12月日の年紀を有する鐘銘には「相州大住郡糟屋庄惣社八幡宮鴻鐘銘」とある
なお,天文20年9月28日,地頭渡辺石見守某が,惣社八幡宮に残した棟札に「糟屋庄」と見えるが(新編相模),この頃には荘園としての実態はなくなっていたと思われる
なお永禄10年3月11日の北条康成判物写(堀内文書/県史資3下-7531)によれば,「糟屋夫銭」のうち,この年より2,000疋を堀内与四郎に扶助するとある
また天正9年5月10日の上田長則法度案写には「糟屋之郷八幡御社頭」と見え,八幡宮付近での竹木伐剪などが禁じられている(新編相模/同前8626)
この糟屋郷は,これ以前の中世史料には見えないが,糟屋荘の中核で,早くから開発が進んだことが推定される
荘内北側を東流する渋田川に沿って東西に通じる大山街道は,古くから大山阿夫利神社および日向薬師霊山寺の参詣路で,相模川を通る戸田の渡しに通じることから,戸田道とも称したまた荘内西側を南流する鈴川に沿う荻野道は,愛甲【あいこう】郡荻野を経て武蔵国八王子に通じ,八王子街道とも称した糟屋氏が八王子周辺を所領とする横山党と血縁関係を結んでいたのは,この街道によるところが大きい
大山街道と八王子街道が直交する石蔵(石倉)は,古くから阿夫利神社の神人たちの集落もあり,交通上の要衝であった
なお慶長初年と推定される実報院粮十方主諸国檀那帳には「かす谷壱円」と見え,当地の先達職を城光房が有していたことがわかる(熊野那智大社文書/栃木県史史料編中世4)
江戸期には,上糟屋村・下糟屋村が見え,現在の伊勢原市上粕屋・下糟屋を中心とする一帯に比定される
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続く
伊勢原と伊勢崎の間が本来の伊勢?なんて思った事あります。江戸・鎌倉そして平安はとんで奈良時代が気になりますよね。
上と下の付く地名も奈良とか大阪にも通じますし、粕屋・糟屋て時だけでも魅力的です。神奈川にあるとは?ちょっと嬉しいです。早速地図見てみます。9321
大山って、信仰深い山だったのですね。
この辺りも調べてみますね。
阿夫利神社のことも、情報集めています。
何かありましたら、よろしくお願いいたします。