今日の日本国の政治の世界を見ますと、‘権力を握っていれば、何でもできる’とする傲慢さに満ちています。この態度は、与党も野党も変わりはなく、前者が特に‘あこぎ’に見えるのは、政権の座にあるからなのでしょう。選挙期間にあっては平身低頭で自らへの支持をお願いしながら、選挙が終わった途端、支配者然として振る舞うのですから、イギリス人は選挙の間のみが自由であって、選挙が終われば‘奴隷’であるとする、18世紀に生きたジャン・ジャック・ルソーが指摘した通りでもあります。ルソーの時代から250年余りが経過し、民主主義の価値が定着したとされる今日にあっても、民主主義国家の証とされる自由選挙は形ばかりに過ぎないようです。
それでは、何故、民主主義の制度的な発展は停滞したままであり、国民は、‘奴隷’状態のままに置かれているのでしょうか。もちろん、奴隷という言い方は文字通りの法的身分としての奴隷ではなく、‘他人に自分自身に関する権利を握られている者’、‘他人の意思に従う者’、あるいは、‘一方的に支配される者’という意味合いでの誇張表現ではあります。国民自身も、自らを‘奴隷’とは見なしていないことでしょう。ところが、政治家の国民を見る目は、かつての専制君主や‘奴隷主’の視線と然して変わりはないように思えます。否、現代のテクノロジーからすれば、国民は‘デジタル管理の対象ということなのかもしれません。
この問題の原因は、先ずもって‘人を選ぶ’という選挙制度の基本的な仕組みそのものに求めることができます。ルソーの言葉が示唆するように、‘奴隷’が‘奴隷主’を選ぶ選挙では、何時までたっても奴隷は奴隷のままなのです。そこで、‘奴隷’が奴隷状態から脱するためには、選挙後にあっても‘奴隷主’の行動を拘束する何らかの仕組みを要することとなります。この点に注目しますと、近年における公約を掲げての選挙は、奴隷状態からの脱出に向けての第一歩ともなりましょう。公約とは、立候補者と有権者との間の半ば一種の‘約束’や‘契約’を意味しますので、選ばれた側がその職にある限り、公約は拘束的に作用するからです。「契約は守られなければならない」はローマ法の格言ですが、人類普遍の人間社会の原則とも言えましょう。
かくして、公約の作成とその明示は選挙に際して立候補者がすべき作業とも認識されるに至るのですが、公約の掲載のみをもって奴隷状態からの完全に脱却できるわけではありません。(1)極めて内容の乏しい公約(事実上の白紙委任化・・・)、(2)意図的な争点はずしや誘導、(3)公約の‘抱き合わせ販売’、(4)公約内容に関する政党間談合、そして、公約には法的な実行義務がありませんので、(5)公然たる公約違反もあり得ます。かくして、‘敵も然るもの’、公約付き選挙は様々な手法によって悪用・歪曲され、その拘束的な効果を十分に発揮できない状況が続いているのです。
それでも、公約には、政治家に対する選挙後の長期的な拘束性という効果はあります。完全ではないにせよ、同制度を改善することで、政治家の奴隷主的な態度や意識を改めさせることは不可能ではありません。例えば、公約に‘必須項目’を設けるというのも一案かも知れません。日本国や社会、そして、国民に直接的な影響を与える重要な政策分野については、必須項目として公約への記載を義務付けるのです。例えば、(1)移民政策(国境管理)、(2)防衛・安全保障等の対外政策(3)税制・社会保険制度、(4)公衆衛生(ワクチン政策等・・・)、(5)グローバル化(デジタル化の是非・・・)、(6)憲法改正の対象条文といった、従来、政党や政治家が故意に避ける傾向にあった政策領域についても、立候補者は、自らの立場や主張を明確にしなければならなくなります。
「オストロゴルスキーのパラドックス」が既に数学的に証明しているように、個別の政策の選択と政党の選択は必ずしも一致せず、この問題は、ゆくゆくは政策別選択を可能とする制度の構築を要するのですが、少なくとも、現状にあっては、公約における必須項目の設定は、公約にまつわる幾つかの問題を軽減させることでしょう。来る年が、真の意味、すなわち、自由なる日本国民による政治に向けての政治改革の元年となることを願いつつ、本年最後のブログ記事を締めくくりたいと思います。拙い記事ながら、お読みくださいましたこと、心より感謝申し上げます。
それでは、何故、民主主義の制度的な発展は停滞したままであり、国民は、‘奴隷’状態のままに置かれているのでしょうか。もちろん、奴隷という言い方は文字通りの法的身分としての奴隷ではなく、‘他人に自分自身に関する権利を握られている者’、‘他人の意思に従う者’、あるいは、‘一方的に支配される者’という意味合いでの誇張表現ではあります。国民自身も、自らを‘奴隷’とは見なしていないことでしょう。ところが、政治家の国民を見る目は、かつての専制君主や‘奴隷主’の視線と然して変わりはないように思えます。否、現代のテクノロジーからすれば、国民は‘デジタル管理の対象ということなのかもしれません。
この問題の原因は、先ずもって‘人を選ぶ’という選挙制度の基本的な仕組みそのものに求めることができます。ルソーの言葉が示唆するように、‘奴隷’が‘奴隷主’を選ぶ選挙では、何時までたっても奴隷は奴隷のままなのです。そこで、‘奴隷’が奴隷状態から脱するためには、選挙後にあっても‘奴隷主’の行動を拘束する何らかの仕組みを要することとなります。この点に注目しますと、近年における公約を掲げての選挙は、奴隷状態からの脱出に向けての第一歩ともなりましょう。公約とは、立候補者と有権者との間の半ば一種の‘約束’や‘契約’を意味しますので、選ばれた側がその職にある限り、公約は拘束的に作用するからです。「契約は守られなければならない」はローマ法の格言ですが、人類普遍の人間社会の原則とも言えましょう。
かくして、公約の作成とその明示は選挙に際して立候補者がすべき作業とも認識されるに至るのですが、公約の掲載のみをもって奴隷状態からの完全に脱却できるわけではありません。(1)極めて内容の乏しい公約(事実上の白紙委任化・・・)、(2)意図的な争点はずしや誘導、(3)公約の‘抱き合わせ販売’、(4)公約内容に関する政党間談合、そして、公約には法的な実行義務がありませんので、(5)公然たる公約違反もあり得ます。かくして、‘敵も然るもの’、公約付き選挙は様々な手法によって悪用・歪曲され、その拘束的な効果を十分に発揮できない状況が続いているのです。
それでも、公約には、政治家に対する選挙後の長期的な拘束性という効果はあります。完全ではないにせよ、同制度を改善することで、政治家の奴隷主的な態度や意識を改めさせることは不可能ではありません。例えば、公約に‘必須項目’を設けるというのも一案かも知れません。日本国や社会、そして、国民に直接的な影響を与える重要な政策分野については、必須項目として公約への記載を義務付けるのです。例えば、(1)移民政策(国境管理)、(2)防衛・安全保障等の対外政策(3)税制・社会保険制度、(4)公衆衛生(ワクチン政策等・・・)、(5)グローバル化(デジタル化の是非・・・)、(6)憲法改正の対象条文といった、従来、政党や政治家が故意に避ける傾向にあった政策領域についても、立候補者は、自らの立場や主張を明確にしなければならなくなります。
「オストロゴルスキーのパラドックス」が既に数学的に証明しているように、個別の政策の選択と政党の選択は必ずしも一致せず、この問題は、ゆくゆくは政策別選択を可能とする制度の構築を要するのですが、少なくとも、現状にあっては、公約における必須項目の設定は、公約にまつわる幾つかの問題を軽減させることでしょう。来る年が、真の意味、すなわち、自由なる日本国民による政治に向けての政治改革の元年となることを願いつつ、本年最後のブログ記事を締めくくりたいと思います。拙い記事ながら、お読みくださいましたこと、心より感謝申し上げます。