ユダヤ思想における’救い’の問題は、’迫害されてきたマイノリティー’が’迫害してきたマジョリティー’を救うことができるのか、あるいは、’選ばれしマイノリティー’が’全人類’を救済し得るのか、という難しい問題を提起しています。果たして、ユダヤ人は、ユダヤ教が説くように全人類に救いをもたらすのでしょうか。
現実の世界に目を向けますと、強者のマイノリティーが弱者のマジョリティーを支配したり、搾取するのが歴史の常です。とりわけ、他の民族を屈服させて樹立された異民族王朝の場合には、この傾向はさらに強まります。支配層と非支配層は異なる民族によって構成されますので、同族的な一体感もなく、連帯感も希薄となるからです(国家を家族に模した家族型国家とはならない…)。前者にとりまして後者は、自らが権力を振るう対象であり、所有物、あるいは、利益を得るための客体的な存在に過ぎなくなります。このため、多くの場合には、被支配者にさせられ、圧迫を受けてきたマジョリティーは、支配者であるマイノリティーからの解放を願うこととなります。
一方、’流浪の民’となったユダヤ人の歴史を見ますと、当然とも言えますが、異国の地にあって常にマイノリティーの立場にありました。また、ユダヤ教の厳しい戒律にも起因して、移住地のあっては閉鎖的なコミュニティーを形成しており、ヨーロッパ諸国では、都市の一角にあって高い壁に囲まれたゲットーに集住することも少なくなかったのです(マックス・ヴェーバーによれば、ユダヤ人の隔離は自発的な側面もあった…)。その一方で、大航海時代以前の時代に遡って、ユダヤ人は、商人としてアジアやアフリカにも赴き、各地の都市にビジネスの拠点を設け、世界大のネットワークを形成しています。やがてユダヤ・ネットワークは、キリスト教の布教(特にイエズス会…)やヨーロッパ列強の植民地獲得政策、並びに、東インド会社の活動と融合、あるいは、伴走しながらさらに強化され、そして、今日のグローバリズムは、ユダヤ勢力を全世界の支配者に押し上げつつあると言えましょう。そしてここに、排他的なマイノリティーのユダヤ人は、全人類を救うのか、という問題が提起されることとなるのです。
仮に、ユダヤ人が弱者のマイノリティーの立場にありながら、神からの使命を受けて全人類に愛と正義と平和をもたらすのであれば、それは、神の御業とも言える偉業なのかもしれません。しかしながら、現実を見ますと、ユダヤ人は、古代のモロク教の信仰を捨て切れず、バビロニア・タルムードの詐術的な思考傾向と相まって、ユダヤ人の主要勢力の信仰心を神とは逆の悪魔崇拝の方向へと導いてしまったようです。神に背を向けてしまった今日のユダヤ勢力の姿からしますと、神が契約を以ってユダヤ人に託した使命が、この世にあって成就されるとは思えません。結局、超国家権力体として君臨するユダヤ勢力は、強者のマイノリティーが弱者のマジョリティーを支配するという歴史を繰り返すのではないかと思うのです。
そして、ユダヤ人ではない他の人々にとりましては、ユダヤ人を救うために出現したメシアが自らをも救うとする説は、悪い冗談にしか思えないことでしょう。選民意識が染み付いているユダヤ人が、その排他性や特権意識を自ら放棄するとは思えませんし、何にもまして、ユダヤ人の理想郷の押し付けは独善にしか映らないからです。しかも、その理想郷は、サタニックなディストピアなのですから。人類の救いとは何か、という問題を考える時、少なくともそれをユダヤ人に期待するには無理があるのではないかと思うのです。