近年、グローバリズムの源流という文脈から、’流浪の民’の運命を背負いつつ超国家的なネットワークを築いたユダヤ人やユダヤ教に対する関心が高まっています。そこで、ユダヤへの理解を深めるために、『ユダヤ思想』という本を読み直してみることとしました(アンドレ・シュラキ著、文庫クセジュ、白水社、1966年)。
同書は、『文庫クセジュ』に収録されている一般向けに書かれた概説書です。著者のシュラキ氏は、16世紀にスペインからアルジェリアに移住したユダヤ人を祖先に持つ知識人であり、内部者としての視点から同書を執筆しています(フランス・アルジェリア・イスラエルの三重国籍?)。同書がフランスで初版されたのは、邦訳が出版される1年前の1965年のことですので、既に半世紀が経過しています。このため、本書は、グローバリズムが全世界を覆う前のユダヤ人の認識や考え方を知ることができる、貴重な書物の一つとも言えましょう。
学生時代に読んだ時には差して気に留めることもなかったようなのですが(読んだことも忘れている…)、今日という時代背景に照らして注意深く読んでゆきますと、ユダヤ・コミュニティーに潜む重要なパラドックスが見えてくるようにも思えます。本来であれば丁寧に説明すべきなのですが、いささか大胆な要約をお許しいただけるならば、’ユダヤ教の救い’とは、以下のような論法となります(理解が間違っている、とする批判もあるかもしれません…)。
’神(YHWH)は単一にして至高であり(単一性、超越性、実在性)、人と同様に意思を持つ(神人同形同性論)。その神は、モーゼなどの預言者と契約を結ぶことで、ユダヤ人を全人類に愛と正義と平和をもたらす役割を担う特別の民族として選んでいる。しかしながら、神の意志を成就するためには、ユダヤ人は幾多の試練に耐え忍ばなければならない。そして、あらゆる迫害や苦難に打ち勝ってダビデの子孫の中から救世主メシアが現れた時、地上に人類の理想郷たる神の国が出現する。’
この論法に従えば、ユダヤ人が神から選ばれた理由は、’全人類を救うため’ということになります。ところが、今日のユダヤ・コミュニティーの動きを見ますと、神から託された’使命’とは逆の方向に向かっているようにしか見えません。本書を読み進める中で、真っ先に頭に浮かんだのは、’何を言っているの。人類は、傲慢なユダヤ人から解放されたいのではないの?’というものでした。正直に申しますと、あまりの現実との違い、あるいは、独善に唖然とさせられてしまったのです。
シュラキ氏は、ユダヤ人の救い⇒人類の救いという普遍的、かつ、博愛主義的な構図で説明しており、ユダヤ人を、あくまでも、メシアの到来を待ちつつ迫害を甘受する被害者の立場に置いています。ところが、グローバリズムが全世界を覆う今日、ユダヤ系金融勢力は、デジタル、脱炭素、ワクチン(イスラエルが全世界に先駆けてワクチン接種を実施した理由もここにある…)を軸として全人類のコントロールを試みているかのようです。言い換えますと、ユダヤ人による世界支配(ユダヤ人にとっての救い)は、決して全人類の救いではなく、ユダヤ人以外の人類には、拝金主義的なユダヤ人の冷酷で独善的な支配、あるいは、迫害からの解放を必要とする状況を齎しているとも言えましょう。
神とユダヤ人との契約の内容が「モーゼの十戒」であるならば、ユダヤ人の多くは、その契約を既に破っており、名目的には’ユダヤ人’を称していたとしても、’神から選ばれし民’としての資格を失っています。今日のユダヤ・コミュニティーの主要勢力は、上述したユダヤ教の救いの論理からしますと、むしろ背信者であり、異端者と言わざるを得ないのです。それでは、何故、このような現象が起きてしまったのかと申しますと、トーラ(ユダヤ教の経典で、内容は旧約聖書とほぼ同じ)の注釈書としてのタルムード(反対解釈や曲解…、あるいは、二重思考の起源?)、並びに、他の宗教や思想の影響もあるのでしょう。そして、もう一つ、考えるべきは、ユダヤ人には聖書由来ではない別の宗教が存在していた、あるいは、している可能性です。この疑いについては、同書の最後の部分で、シュラキ氏は重要な情報を提供しているように思えます。(つづく)