万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

太平天国はユダヤ教の国家モデル?-ユダヤ人による救いの限界

2022年01月13日 16時36分01秒 | 国際政治

19世紀中葉において中国大陸で起きた太平天国の乱は、異民族王朝であった清の支配に対する洪秀全率いる新興キリスト教集団の反乱として凡そ理解されています。キリスト教を信仰する善良な信徒たちが、理想の国の建設を目ざして清国の圧政に立ち向かった抵抗の歴史として語られがちなのですが、どうやらその実態は、悪に対する善の戦いというこの単純な対立構造のイメージを覆してしまうようなのです。

 

太平天国に対するイメージが大きく転換する切っ掛けとなったのは、『太平天国-皇帝なき中国の挫折』という一冊の本です(菊池秀明、岩波新書、2020年)。同書には、プロテスタントの宣教師であったセオドア・ハンバーグの著作からの引用として、洪秀全は「天国の約束された領土とは中国をさし、神に選ばれた民族の後裔とは中国人と洪秀全をさすものだ」と考え、『旧約聖書』のモーセ五書を重視したとあります。信者のために作成された『天条書』も、モーセの十戒を基にして作成されていますので、‘上帝教(上帝とはYHWHのこと)’とは、キリスト教というよりも、ユダヤ教に極めて近い宗教であったと言えましょう。因みに、上帝教では、魂の救いよりも現世利益が強調されていたともされます。

 

上帝教がユダヤ教の亜流であるとしますと、太平天国とは、ユダヤ教が説く神の国の建設であり、また、この世における具現化であったとする見方もできます。いわば、ユダヤ教を国教とする神聖政治を実現したユダヤ教の国家モデルということにもなりましょう。先ずもって、洪秀全は、自らがメシアであることを信者に認めさせるために、トランス状態に陥った会員の楊秀清に天父のYHWHが、蕭朝貴に天兄のイエス・キリストが、それぞれ降臨(下凡)したとする演出を行います。1848年4月に、洪秀全は、’天父’のお告げにより「天下万国の真主」、つまり、メシアに任じられるのです(なお、洪秀全は1837年に「金髪で黒服姿の「至尊の老人」からこの世を救えと命じられる夢を見た」とされる)。太平軍が南京を占領した際も、これを、モーセの出エジプトに喩えたとされます。

 

太平天国は、神の許で皆が平等に平和に暮らす理想郷とされたのですが、実際には、洪秀全を初め、楊秀清や蕭朝貴といった有力幹部(最初は5人の王)を特別の地位に置くヒエラルヒーが形成されていました。平等思想の下で財産も共有とされ(「飯があれば共に喰い、衣服があれば共に着る」が上帝会のモットー…)、聖庫と呼ばれる共同の国庫を設けたものの、上層部が富や権力を独占したのは他の歴代王朝と殆ど変わりはありませんでした。そして、理想と現実との矛盾を抱えた太平天国の国家体制は、凡そ1世紀の後に中国で誕生した共産主義国家、中華人民共和国とも著しく類似しているのです。

 

太平天国が、’汝の敵を愛せ’、あるいは、’右の頬を打たれたら左の頬を向けよ’、と説いた愛と寛容の宗教であったキリスト教を信仰しながら、信者を獲得するに際して甘言や脅迫を用い、曽国藩の湘軍を中心とした清軍と戦うに際しても容赦がなかった理由も、そのベースがユダヤ教にあったからなのでしょう。同書の帯には「人類史上最悪の内戦」とあり、同内乱にあっては、民間人を含め、江蘇だけでも死者は2000万人を超えたと記されています。「人類史上最悪の内戦」は、本当のところは共産党と国民党との間の20世紀の内戦のようにも思えますが、デスマッチの如き殲滅戦となった要因の一つは、ユダヤ教に内在する問題にあったのかもしれません。

 

同書では、太平天国を中国における分権体制への移行(民主化?)の可能性を示す事例として問題提起されています。その一方で、太平天国をユダヤ教の国家モデルであるとする視点からしますと、その滅亡は、別の意味を持ってくるように思えます。’選ばれしマイノリティー’が’全人類’を救済し得るのか、という問題が、今日的な意味を含みながらリフレインされるからです。

 

洪秀全自身は、上帝会の幹部の多くと共に客家の出身であり、清国にあっても、漢民族にあってもマイノリティーの立場にありました(もっとも、異民族王朝であった清に対しては、漢民族に自らのアイデンティティーを置いて滅満興漢を主張…)。上述したように、洪秀全が『新約聖書』よりも『旧約聖書』を重視したのも、自らの境遇をユダヤ人に重ねたからとされています。そして、太平天国の滅亡とは、救世主としての普遍性を唱えながら、選ばれし者としての特権意識、並びに、自らの排他性から脱却することができなかった‘ユダヤ人’の限界を示しているようにも思えるのです。

 

太平天国は、1864年6月1日の洪秀全の死から凡そ一月半を経た7月19日に、首都南京の湘軍による陥落によって滅亡の日を迎えます。しかしながら、太平天国は、本当にこの世から消え去ったのでしょうか。今日にありましても、‘太平天国’の樹立を目指す組織が、全世界において蠢いているようにも思えるのです。皆様方は、どのようにお考えでしょうか。


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