万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

イスラエル・ハマス紛争の不可解

2023年10月10日 12時48分02秒 | 国際政治
 パレスチナのイスラム過激派組織ハマスによるイスラエル攻撃は、既に始まっている第三次世界大戦の一幕とする見方もあります。その一方で、全世界の諸国を巻き込む世界大戦へと向かうシナリオには、いささか無理があるように思えます。否、第三次世界大戦シナリオは無理を通さなければ実現せず、それ故に、大戦へと導こうとする人々の発言や行動には、どこか怪しさが漂うのです。

国際社会においてテロ行為が批判されるのは当然のことなのですが、その一方で、テロリストの戦いが戦争を拡大させる口実となるとしますと、もう一つの道徳・倫理問題が持ち上がります。平和や人々の命を護ることも、犯罪や侵害行為の撲滅と同じくらい、人類にとりまして実現すべき価値であるからです。言い換えますと、‘平和を保ちながら暴力を排除する’という難題に直面することとなるのです(この難題は、警察力が暴力に対して圧倒的に優位な場合に解消される・・・)。今般のハマスの件についても、少なくとも、地域紛争を世界戦争に拡大させるメカニズムを発動させてはならないことは言うまでもありません。ところが、現実には、アメリカをはじめとした各国が過剰反応を示しており、上述したように、世界大戦誘導作戦が動き始めている気配があるのです。

世界大戦に誘導したい勢力、即ち、過去の二度の世界大戦をも裏から操ってきた世界権力が、地域紛争を世界大戦に拡大させる方法として、おそらく幾つかの経路を考えているはずです。

第一の経路は、二国間あるいは多国間の軍事同盟の発動です。多国間条約にせよ、二国間条約にせよ、軍事同盟条約には有事に際しての軍事的な相互援助の規程が設けられています。イスラエルとアメリカとの間にも「アメリカ・イスラエル戦略パートナー法」が存在していますので、両国間にあっては準軍事同盟という関係があります。実際に、バイデン大統領は、昨日10月9日にイスラエルのネタニヤフ首相との電話会談でイスラエルに対する武器供与を始めたことを明らかにしています。考えてもみますと、議会での議論もなく武器供与が決定されていますので、大統領や首相の独断が横行する独裁化の傾向は、自由主義国でも共通のリスクとなっているようです。こうした世界大での独裁体制化は、世界権力の未来ヴィジョンに既に書き込まれているのでしょう(オーウェルの『1984年』を参照・・・)。

 いささかお話が本筋から外れてしまいましたが、軍事同盟を発動させる場合、現代の国際法にあっては、国連憲章第51条の条文が示すように、集団的自衛権の行使には、正当防衛が条件とされています。つまり、法的な根拠が一切なく、かつ、国際法を無視する形での、相手国から一方的な攻撃を受けた被害国である必要があるのです。そこで、ハマスによる攻撃についても、集団的自衛権の行使の是非が検討されるならば、国際法に違反する‘侵略’、あるいは、違法な攻撃なのか、という問題が提起されることとなりましょう。

 この点、パレスチナ紛争は、イスラエル建国の仮定からして双方に言い分がある所謂‘領土問題’であることは明白です。第二次世界大戦後における同国の建国に際しては、第一次中東戦争が起きましたが、この時、アラブ諸国の攻撃をイスラエルに対する‘侵略’や違法な武力行使と見なす見解はありませんでした(第4次中東戦争までこの認識は変わらない・・・)。それどころかイスラエルは、その後、法的にはパレスチナの領域であるヨルダン川西岸地区などを軍事占領し、自国民を入植地させています。2016年12月23日には、国連安保理においてイスラエルの入植活動を国際法に違反する行為と認定し、同活動の停止を求める決議も成立することとなりました(アメリカは棄権・・・)。つまり、法的には、‘侵略’を行なっているのは、むしろイスラエルとも言えるのです(ただし、ガザ地区の入植地については2005月に自発的に撤収・・・)。

 パレスチナ問題が極めて複雑であり、イスラエルがパレスチナの法的領域を占領している現状からしますと、ハマスの行為を‘侵略’と認定することは難しくなります。このため、ハマスが国境を越えてイスラエルを攻撃することが批判される一方で、イスラエルがハマスによるテロを理由としてパレスチナを正規軍で空爆することは許されるのか、テロリストの側が正当防衛を主張する場合、どう対処するのか、といった様々な問題を議論する必要がありましょう。また、ハマスが攻撃を加えたのは、あくまでもイスラエルであってアメリカではありません。9.11事件に際しては、NATOも集団的自衛権の発動を宣言しましたが、今般のイスラエル攻撃については、少なくともハマスが直接にアメリカを攻撃しない限り、紛争拡大の要因とはならないはずなのです。

 何れにしましても、国連安保理をもってハマスに対して軍事力の行使を容認する決議が成立するとは思えないのです。このことは、第二の経路、即ち、国際法秩序の維持を根拠とした国際法違反行為に対する制裁戦争として全世界の諸国を巻き込むという手法も、断念せざるを得ないことを意味しましょう(つづく)。

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イスラエル対ハマスの戦いは第三次世界大戦の一環なのか

2023年10月09日 12時28分42秒 | 国際政治
 今月7日、パレスチナのイスラム過激派組織であるハマスが、国境を越えてイスラエルを攻撃したことから、‘第三次世界大戦は既に始まっている’とする見解が再びメディアに登場することとなりました。両者間の戦闘による死者数は、既に双方で1000人にも上るそうですが、かつて、人類の最終戦争、すなわち、‘ハルマゲドン’の場は中東とする予言もあり、中東での紛争激化は、国際社会においてより強い反応を引き起こしているようです。しながら、その一方で、今般の事件は第三次世界大戦の一環と見なす見解は、むしろ、世界大戦誘導という陰謀の実在を強く示唆しているようにも思えます。

 それでは、ハマスによるイスラエル攻撃は、どのようなシナリオであれば、第三次世界大戦の一部に位置づけられるのでしょうか。同説に依れば、ウクライナこそ、第三次世界大戦の始まりとなります。ロシアのウクライナに対する‘侵略’認定が、武器供与のレベルであれ、アメリカをはじめとしたNATOの事実上の介入を招いたのであり、ここに、地域紛争が世界大戦へと連鎖する経路が開かれたと見なしているのです。

 しかしながら、ウクライナ紛争と今般のハマスによる攻撃との間では、一先ずは、直接的な関連性を見つけることはできません。仮に、今般のハマスによるイスラエル攻撃が一連の第三次世界大戦の一環であるならば、どこかに両者を繋ぐ接点があるはずです。第三次世界大戦を主張する人々は、おそらくウクライナのケースと同様のアメリカがイスラエルを当然に軍事的サポートするものと見なしているからこそ、同説を主張しているのでしょう。実際に、アメリカは、1989年にイスラエルに対してMajor non-NATO ally (MNNA)の地位を与え(オーストラリア、エジプト、日本、韓国と共に指定)、2014年には「アメリカ・イスラエル戦略パートナー法」を制定しています。イスラエルこそ、中東におけるアメリカの軍事的拠点であり、米軍こそ駐留してはいないものの、米軍はイスラエルの軍事施設を使用する権利も有しているのです。

 こうしたアメリカとイスラエルとの密接な軍事関係からすれば、ハマスによる攻撃は、イスラエル防衛を根拠としたアメリカの軍事介入の可能性を高めます。また、2001年の9.11事件に際しては、NATOは、北太平洋条約第5条に基づく集団的自衛権の発動を宣言していますので、アルカイダと同様にハマスに対してもテロ集団としての認定は重要な戦争拡大の要素となりましょう。実際に、アメリカのバイデン大統領やEUのウルズラ・フォンデアライエン委員会委員長は、ハマスをテロリストとして批難し、イギリスのスナク首相やフランスのマクロン大統領等もイスラエル支援で歩調を揃えています。また、ウクライナのゼレンスキー大統領に至っては、テロリストに対する共闘を訴えているのです。

 しかも、ハマスの背後にはイランが控えているとされ、今般のイスラエル攻撃の裏でも、同国によるサポートがあったと指摘されています(イランのライシ大統領は、パレスチナのイスラム組織ハマスの指導者ハニヤ氏を賞賛・・・)。イランがハマスの後ろ盾ともなれば、中東のイスラム諸国内でも宗派対立に火も付き、同地域にあってイランを中心としたシーア派陣営と非シーア派陣営、あるいは、イスラム陣営対親ユダヤ陣営の対立が戦争を拡大させる導火線ともなり得ます。近年のイスラエルとサウジアラビアとの関係改善を考慮しますと、イスラエルはもとより、アメリカのMNNAの地位にある他のアラブ諸国、即ち、エジプト、ヨルダン、バーレーン、クウェート、モロッコ、カタール並びにサウジアラビアは、イスラム教国でありながらアメリカ陣営に加わることでしょう。

 米軍がウクライナのみならず、イスラエル支援のためにユーラシア大陸の西方に兵力を割くとしますと、中国は、西方に米軍が釘付けとなっている今こそ千載一遇のチャンスとばかりに、台湾侵攻を決行するかもしれません。仮に東方の中国も軍事行動を起こすとしますと、ウクライナ⇒イスラエル⇒台湾という流れにあって、およそ全世界を二分する第三次世界大戦が現実のものとなるのです。

 しかしながら、この一連の第三次世界大戦への連鎖拡大のプロセス、あまりにも出来過ぎているように思えます。何故ならば、今般のハマスによる攻撃の位置づけは余りにも‘逆算’的ですし、落ち着いて考察しますと不可解な点も多く、同シナリオ通りに事態が進展する可能性の方が、よほど低いように思えるからです。少なくとも、連鎖性を遮断するチャンスも根拠も数多あります。また何よりも、全力で戦争回避に務めることが政治家の国民に対する責務ですし、基本的な役割であるはずなのですから。先ずもって、申し合わせたかのように自らの責務を放棄して第三次世界大戦の道を先導する、あるいは、国民世論を好戦的な方向に扇動するような政治家達の存在こそ、第三次世界大戦のシナリオが既に存在している疑いを、より一層強めていると言えましょう(つづく)。

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政治力学とは何か-政治構造力学の薦め

2023年10月06日 11時18分56秒 | 統治制度論
 力とは、それが及ぶ対象に対して何らかの変化をもたらすものとして理解されています。たとえ外見的には変化が現れなくとも、圧力や温度が上がるなど、内部では力の作用によって何らかの目には見えない変化が起きているものなのです。このため、政治の世界でも、しばしば政治力学という言葉も使われています。

もっとも、政治力学という言葉が登場する時は、政治家同士の力関係が重要な決定要因となったり、有力政治家や団体等の発言が物を言うような場面が多数を占めます。例えば、法案の作成に際して、党内の有力幹部が自らの思惑や利害のために若手の意見をねじ伏せたり、ある業界において利権を有する政治家が口を挟むような場合、‘政治力学が働いたから仕方がない’といったような使われ方をします。また、政治家が関わらない純粋に民間の企業等にあっても、隠然たる影響力を有する内外の有力者からの圧力を、‘政治力学’として表現することも珍しくありません。何れにしましても、今日における政治力学という言葉の使われ方は、‘学’という文字によって惑わされがちですが、どこか密室的で不正なイメージが付きまとっているのです。

 こうした‘正式の手続きから逸脱した不当な力の行使’という政治力学のマイナスイメージの原因は、おそらく、その力がパーソナルな関係性において働いているからなのでしょう。正式な決定手続きにあって権限を有さない人物や団体等が、本来あるべき合理的な決定を歪めたり、妨げたりするからこそ、政治力学は忌み嫌われてしまうのです。‘○○議員には、△□でお世話になっている’、‘○△議員の言うことを聞いておけば損はない’、あるいは、‘△□議員は、頭の上がらない先輩である’といった、極めてパーソナルな関係が政治力学が働く経路なのです。言い換えますと、政治力学における力とは、正を不正に変化させてしまう作用として凡そ理解されているのです。

 かくして、政治力学という言葉は、時にして有力政治家にとりましては、自らの個人的な政治力を公式の職権を超えて行使し得る証でもありますので、いわば誇るべきことなのでしょうが、国民にとりましては、政治の公共性を損なう民主主義の阻害要因でしかありません。しかも、政治力学が日常用語となることで、政治における力はパーソナルな関係性といった狭い空間に閉じ込められてしまいがちとなります。こうした現状では、‘政治における正しい力の作用とは何か’といった根本的な問題も、影が薄くなってしまうのです。この風潮は、政治がイデオロギーと凡そ同一視されるようになった現代において、なおさら強まっているようにも思えます(共産主義が‘科学的’とは到底思えない・・・)。

 しかしながら、その一方で、政治における力の作用の研究は、現実の政治を改善する上でも有益なはずです。例えば、物理的な力の作用、すなわち、軍事の分野でも、力とその逆方向の抵抗力との関係は極めて重要です。国際社会における勢力均衡は、力のバランスに対する認識を欠いては成立しませんし、核の抑止力の問題も、突き詰めれば力のバランスの問題なのですから(この点、NPT体制は、力学的に見れば不均衡な構造である・・・)。物理的な意味において‘平和’が静止状態、すなわち、力の均衡を意味するならば、力学的なアプローチは欠かせないのです。

 そして、統治機構という構造物の設計に際しても、力学を避けて通ることはできないように思えます。そもそも、統治権力をその目的や機能に沿って複数の機関に分け、これらの機関に相互制御の作用を持たせるとする権力分立のメカニズムは、力の均衡に基づいています。政府や公的機関が国民から委託された公的職務や任務から逸脱したり、これらによる権力の濫用を未然に防ぐためには、制度設計において複雑に作用し合う権力のバランスを考慮しなければならないのです。漠然と権力と申しましても、決定権が最も重要な権限ではあるものの、提案、実行、制御、人事、評価などに関する権力も極めて重要な働きをします(2024年3月21日提案を加筆)。とりわけ制御の権力は、逸脱、濫用、暴走等を防ぐ抑止の役割を担い、悪政を防ぎ、かつ、統治機能を国民に安定的に提供するためには不可欠となりましょう。

 政治の分野に力学が必要となるとすれば、それは、パーソナルな関係に注目した一般的に用いられている‘政治力学’ではなく、より構造的なアプローチが望ましいように思えます。政治構造力学とでも表現すべきアプローチがあれば、今日の人類が抱えている様々な問題、即ち、権力の私物化、民主主義の形骸化、そして、独裁体制における人々の自由や権利の抑圧などの解決や未然防止に大いに貢献するのではないかと期待するのです。

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コロナワクチンと全体主義の陰

2023年10月05日 15時25分40秒 | 社会
 今年の生理学・医学ノーベル賞の受賞者は、新型コロナウイルス感染症に対するワクチンの開発に貢献したとして、二人のペンシルバニア大学の研究者が選ばれました。カタリン・カリコ特任教授とドリュー・ワイスマン教授のお二方なのですが、政府並びに主要メディアが人類を救った偉大なる功績として絶賛する一方で、ネットをはじめとした一般国民の反応は極めて微妙です。否、訝しがる人の方が多いくらいです。その理由は、言わずもがな、超過死亡者数によって示唆されるように、ワクチンが原因として強く疑われる健康被害が広がっているからに他なりません。

 世界初のmRNA型ワクチンは、新型コロナウイルス感染症によるパンデミックを根拠として政府から緩急許可が下り、急遽実用化されることとなりました。安全性に関する十分な治験を経ずに人類に対して試されたとする批判は、同経緯によるものです。‘人体実験’と言った物騒な言葉も聞かれるのですが、仮に、ワクチンによる健康被害が事実、あるいは、その可能性が極めて高いならば、政府や主要メディアの持て囃す姿勢も疑問符が付きます(同タイプのワクチンについては科学的にも根拠がある・・・)。‘人体実験’の結果は‘有害’であり、一定のパーセンテージで死亡ケースも報告されている以上、実用化は難しいという結論になるはずなのですから。ワクチンと健康被害との因果関係が濃厚である現状にありながら、なおも政府が、mRNAワクチンの技術はあらゆる分野に応用できるとし、同テクノロジーの開発を積極的に後押しするとなりますと、多くの国民は、政府に対する不信感を募らせることとなりましょう。

 もっとも、コロナワクチンによる国民の健康被害については、同ワクチンによって多くの国民の命が感染症から救われたのであるから、致し方ない犠牲として甘受すべきとする意見もないわけではありません。全体を救うためには一部の犠牲は仕方がない、とする論理です。確かに、「トロッコ問題」のような、多数の命か少数の命かの二者択一の究極の選択を迫られる場合には、多数を選択することは倫理的に許容されましょうし、防衛戦争の場合にも、国民の誰もが少なくない自国将兵の犠牲を覚悟しなければならなくなります。極限状態にあっては、少数者の犠牲を受け入れざるを得ない場面もあるのですが、他に選択肢があったり、極限まで至っていない状況下等では、少数者の犠牲に関する倫理・道徳的許容レベルは格段に上がってきます。

 5人の命と1人の命の二者択一を迫られる「トロッコ問題」にしても、最善策はトロッコを止めることです。トロッコが暴走している線路に石、木材、ブロックなどの障害物を置いてトロッコを停止、または、脱線させれば、6人全員の命が失われずに済むのです。選択肢を二つに限定しなければ、犠牲は回避できるのです。

 このように、少数者の犠牲は、他に選択肢なき極限状態という極めて稀な状況にのみ許容されるのですが、今般のコロナ禍が、同状態に当て嵌まるのかと申しますと、この点は、大いに疑問なところです。とりわけ日本国では、‘ファクターX’として謎解きが流行るほど、他の諸国と比較して感染率が著しく低い状況にありました。パンデミックの初期段階にあり、かつ、ワクチンの有害性が不明な段階では‘緊急事態’の言い訳も通用するものの、少なくともワクチン被害が疑われるケースが報告された時点にあって、接種推進から慎重または中止に転換すべきであったと言えましょう。ところが、政府は、因果関係が不明である点を逆手にとって、接種推進策を変更しようとはしなかったのです(疑わしいから止めるではなく、疑いの段階であるうちに進める・・・)。

 コロナワクチンに見られた全体のための少数者の犠牲、あるいは、個人の犠牲の許容という言い分は、全体主義の価値観とも共通しています。状況や条件に関する厳密かつ慎重な検討もなく、際限なく全体優先の論理が浸透してゆきますと、自由主義諸国にあっても容易に全体主義体制の方向に誘導されることとなりましょう。少数者や個人の命の犠牲が当然のことのように主張される時、そこには全体主義の陰が既に忍び寄っているかもしれないと思うのです。

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マスク氏のローマ帝国滅亡論を考える

2023年10月04日 15時25分20秒 | 国際政治
 先日、ツウィッターを買収してXと改名したイーロン・マスク氏は、現代文明をローマ帝国に擬えて、人類は「ローマ帝国の崩壊を再び目撃しようとしている」と述べています。この発現、案外、意味深長なのではないかと思うのです。

 そもそも、ローマ帝国滅亡とは申しましても、氏の述べる‘ローマ帝国’は、西ローマ帝国なのか、東ローマ帝国、即ち、ビザンチン帝国であるのか、それともビザンチン帝国の継承国を主張するロシアであるのか、判然とはしません。各々の帝国の地理的範囲、滅亡原因及び時期等もそれぞれ違っていますし、ロシアをローマ帝国の‘生き残り’と捉えますと、未だにローマ帝国は滅亡に至っていません。もっとも、一般的には、ローマ帝国滅亡と言ったときには、先ずもって最後の西ローマ帝国皇帝ロムルス・アウグストゥルスが廃位され、歴史から消えることとなった476年の西ローマ帝国滅亡がイメージされますので、マスク氏も、おそらく西ローマ帝国を念頭に置いていたのでしょう。

 西ローマ帝国の滅亡原因については、古来、所説が入り乱れてきましたが、世界史の教科書にも記載されている主因は、375年に始まるとされるゲルマン民族の大移動です。言葉だけを聞くと、東方から押し寄せてきた勇猛果敢にして野蛮なゲルマン民族が、高度な文明化と放埒で怠惰な生活によってすっかりひ弱となった帝国を武力で征服したとする印象を持つのですが、その実態は、いささかイメージとは違っています。西ローマ帝国滅亡までの経緯を具に観察しますと、外部的な敵であるゲルマン民族との長期戦に加え、ローマ帝国内部の‘ゲルマン化’という現象を見出すことができます。

 イタリア半島を越えて版図を広げた時点において、征服者であったローマ人は、全人口においてマイノリティーとなることが運命付けられていました。当初から征服した周辺諸国の支配者層にローマの各種市民権を与え、帝国に取り込む政策が積極的に推進してきましたし、帝国の辺境に派遣されたローマ人も、現地の住民との混血によりローマ人の血が薄まっておりました。こうした流れにあって、押し寄せるゲルマン民族の帝国領域内への侵入を押さえることが最早かなわないと判断したローマ皇帝は、国境付近でのゲルマン人の定住を許すのです。

 かくして、帝国内においてローマ市民権を有するゲルマン人の人口も増加し、帝国において要職に就くようにもなります。遂に屈強なゲルマン人傭兵が国境を護ることとなり、帝国末期はゲルマン人対ゲルマン人という奇妙な構図となるに至るのです。そしてラスト・エンペラーとなったロムルス・アウグストゥルスは、ゲルマン人の傭兵隊長ともされるオドアケルによって廃位されていますので、結局は、ローマ帝国は、外的なゲルマン人からの攻撃と
内的なゲルマン人による乗っ取りの内外両面からの挟み撃ち、あるいは、共振によって脆くも崩れ去ったと言えましょう。

 ‘古代ローマ帝国’は西ローマ帝国としますと、‘現代のローマ帝国’は、一体、何処のことなのでしょうか。マスク氏の言う‘現代の帝国’は、‘パックス・ロマーナ’ならぬ‘パックス・アメリカーナ’の名の下で全世界に覇権を広げてきたアメリカとも推測され、移民の増加によって崩壊の危機に瀕しているという見方も成り立つかもしれません。もっとも、移民の急激な増加は、アメリカに限った現象ではありませんので、マスク氏の発言に戦々恐々となった諸国も少なくないことでしょう。因みに、日本国民もまた、国内にあって中国系の人口が急増する中で台湾有事が発生する場合、何が起きるか分からない不安の中におります。

 その一方で、メディアの説明に依りますと、それは‘現代文明’であり、特定の国家ではないようです。マスク氏は、「しかし、今回はWi-Fiもあればミームもある」とも述べていますので、同氏は、デジタル・グローバリズムを現代のローマ帝国と捉えているのかもしれません。デジタル・グローバリズムを推進してきた世界権力の構造は、頂点に座す皇帝に権力が集中する帝国の形態と同様に、金融・経済財閥がトップに君臨するヒエラルヒー構造であるとされます。また、IT大手による独占や寡占も問題視されています。

 この点からしますと、マスク氏が滅亡を予言した現代のローマ帝国とは、マネーパワーで各国の有力政治家を取り込み、事実上の‘属州’とした‘世界帝国’であるのかもしれません。つまり、マスク氏は、世界権力が独裁的に支配するデジタル帝国が滅亡し、その後、より分散的な社会の出現、あるいは、再構築されることを示唆しているとも考えられるのです。世界権力の内部を見ましても、その中核となるユダヤ人は、人類全体からすればマイノリティーですし、ディアスポラ以来、全世界への拡散の結果、最後にはローマ人がいなくなったように、ユダヤ人の多様化並びに‘異民族’の自立化が世界支配の基盤を弱め、一枚岩ではなくなってきているのかもしれません。

 西ローマ帝国が崩壊した後、ヨーロッパでは、今日の国民国家体系の基礎となるより細分化され、かつ、権力が分散された国際秩序が出現します。ローマ帝国の滅亡が、後に主権平等と民族自決を原則とする国際秩序の形成を齎した点に鑑みますと、現代のローマ帝国滅亡は必ずしも人々が嘆くべき悲劇ではなく、各国にとりましては、理不尽な帝国による支配からの解放を意味すると共に、国家、企業、個人等の何れのレベルにあってもより自由で自立性の高い世界の到来を意味するのではないかと思うのです。

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カリコ氏ノーベル賞受賞が抱える‘オッペンハイマー問題’

2023年10月03日 12時07分51秒 | 国際政治
 今年の生理学・医学賞の受賞者は、ペンシルバニア大学のカタリン・カリコ特任教授とドリュー・ワイスマン教授に決定されたそうです。受賞の理由は、mRNAを構成する4つの塩基のうちの一つであるウリジンを、人工的なシュードウリジンに置き換えることで、炎症反応を押さえる方法を発見したことによります。メディアの報道では、同技術がコロナワクチンの開発に貢献したことが強調されていますが、遺伝子の配列異常に起因する癌や遺伝子病の治療法としても期待されています。

 コロナワクチンが新型コロナウイルス感染病から多くの人々の命を救ったとする構図から、人類の救世主として高い評価を得ているのですが、人類に対する遺伝子技術の実用化である以上、全く問題がないわけではないように思えます。素人による素朴な疑問なのですが、同技術については、健康な人々に対する予防目的のワクチンと遺伝子の先天的な異常や後天的な変異に起因する病気の治療方法との間には、幾つかの矛盾が横たわっているように思えるのです。

 感染症に対するワクチンとしての評価は、体内に投入されたmRNAが免疫反応によって破壊されない点が強調されています。確かに、ワクチンの場合には、体内にあって効率よく抗原となるスパイクタンパク質を産生するには欠かせない技術です。しかしながら、この現象は、一種の免疫寛容ですので、実際に新型コロナウイルに感染した場合、免疫反応を抑えてしまう可能性はゼロなのでしょうか(生成された人工スパイクタンパク質に対しても免疫反応は低下する?)。内部的な免疫寛容がプラスに働く癌や遺伝子治療とは違い、感染症を引き起こすウイルスや細菌は外部から侵入してきます。

 この懸念については、新型コロナウイルスの‘本物のmRNA’でもシュードウリジンによって修飾された人工のmRNAでも生成されたスパイクタンパク質には変わりはなく、感染すれば、通常通りの免疫反応を起こすとする説明もありましょう。その一方で、仮に人工スパイクタンパク質にも免疫寛容性があり、かつ、新型コロナウイルス感染症による主たる死亡、重症化の原因がサイトカインストームと呼ばれる免疫暴走であるならば、コロナワクチンによって無反応、あるいは、弱反応化した方が、死亡率や重症化率を下げることとなり、‘ワクチンには感染防止の効果は低いけれども、死亡重症化は下げられる’とする政府の説明と一致してしまいます。この場合、ワクチンによる抗原の生成が抗体を大量に造り、病原体に対する免疫を強める、とする一般的な機序の説明が崩壊します(もっとも、実際には、免疫低下やスパイクタンパク質等によるワクチン被害が多い・・・)。

 また、人工mRANは体内に容易に取り込まれやすいように改変されていますので、逆転写が起きる可能性も否定はできなくなります。成長過程にある小児期にあっては、逆転写酵素であるテロメラーゼといった酵素の発現が高いそうですし、成人であっても、同酵素はがん細胞、幹細胞、生殖細胞などの特別な細胞において存在します。短期間で消滅するから安心、と説明されてはいるものの、逆転写が起きればスパイクタンパク質が生涯に亘って体内で造られ続けることとなりましょう。

 その一方で、癌治療や遺伝子病の治療では、まさに、遺伝子改変で正常化した細胞による組織の永続性こそが治療成功の鍵となります(なお、癌治療については、免疫を高める効果を期待したワクチン型もある・・・)。遺伝子の塩基配列に起因する疾病の治療法では、決して免疫反応が起きてはならないのです。この点からしますと、人工mRNAは、短期に消滅する性質なのか、それとも、長期的に残存する性質のどちらなのか、判然としなくなります。仮に後者ですと、ワクチン投与でも起こりえることですし、それは、上述した懸念の現実化を意味してしまいます。因みに、最近に至り、コロナワクチンには多数のDNAの断片が含まれているとの指摘もあり、逆転写のリスクは無視できなくなりつつあります。

 もっとも、ワクチン用と治療用の人工mRNAとでは、その構造に違いがあり、前者は短期で消滅し、後者は長期にわたって分解されずに残留するように開発されているとも考えられます。あるいは、治療の場合にも、mRNAの分解時期を見計らって人工mRNAを繰り返し再投与する必要があるのかもしれません。何れにしましても、この問題、人工mRNAに関するワクチンと治療法との違いについての十分な説明がかけているため、安心するように言われても、安心できないのです。

 今日、数万人ともされる超過死亡者数の急激な増加は、コロナワクチンを原因とする説が有力です。国民の多くもコロナワクチンの安全性を疑っているのですが、仮に、同技術が多くの人々の命を奪ったとしますと、同技術にも‘オッペンハイマー問題’に直面するかもしれません。科学技術とは、開発者自身の思いを離れて思わぬ目的に利用され、開発者としての栄誉と良心との間の葛藤に苦しむこともあるのですから。人体の仕組みにはまだまだ人知の及ばない領域が残されていますので、ましてや人工mRNA技術の開発と実用化に際しましては、核技術よりもより一層慎重な姿勢と安全チェックが必要なのではないかと思うのです。

*記事の内容に誤りや混乱があったため、2023年10月4日修正しました。申し訳なく、お詫び申し上げます。

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ネット・マッチング・システムの未来

2023年10月02日 11時34分21秒 | 統治制度論
 現代に繋がる経済活動の始まりが、平和的な‘交換’による相互利益の獲得にあるとしますと、双方のニーズの一致は人々を豊かにする基盤となります(狩猟・採取時代では‘配分’が基盤・・・)。言い換えますと、社会の中に様々なニーズがあり、同時に、そのニーズを満たすモノやサービス等を提供することができれば、それだけ、その社会全体が豊かになることができると言えましょう。この観点からしますと、今日のインターネットの普及は、双方のニーズが一致し、主体間の合意形成のチャンスを飛躍的に増加させるという意味において、経済発展に大いに寄与するはずでした。自らのニーズを情報化してネット上に公開すれば、ネット利用者という極めて広い範囲から相互的に自らのニーズを満たす相手方を探し出すことができるからです。
  
 もっとも、同システムでは、ニーズの情報をネット上に公開するだけでは不十分です。何故ならば、如何なるネット上のニーズ情報も、それを探し出す技術がなければ、浮遊物のように、ネット上を漂う誰にも利用されない情報の一つに過ぎないからです。この点に注目しますと、双方が、広大なネットの海にあって自らが必要としている対象を的確に見つけ出すためには、検索技術が必要不可欠なのです。このように考えますと、ネット・マッチング・システムとは、相互の条件付けによる検索を通してニーズを一致させるシステムと言えましょう。

 分散ネットワーク型の同システムでは、利用者の相互的なニーズの一致を目的として設計されているため、システムのメンテナンスや不正利用、虚偽情報のチェック等、あるいは、外部からのサーバー攻撃や情報盗取からシステムを防御する管理・維持機関を必要とはしても、組織全体の意思決定を行なったり、個々のマッチングに介入するような機関は要りません。利用者が、相互に直接にコンタクトをとり、交渉を行なうためのシステムですので、介在者を要さないのです。このことは、制度設計に際しては、独立性が確保されるべきことを意味しており、同システムの運営は、基本的には参加者達の自立性に委ねられるのです。

 また、多くの人々が安心して同システムを利用するためには、利用者間でトラブルや紛争等が発生した場合の解決手段を予め設けておく必要もあります。利用者の誰もが被害や損害の申し立てを行なうことができ、必要とあれば中立・公平な機関が調査を実施し、かつ、最終的な解決手続きとして司法制度と連結させれば、利用者も安心しますし、システムとしての信頼性も高まるからです。中には不法行為や犯罪もありましょうから、警察、検察、並びに裁判所を解決メカニズムに組み込むことも一案となりましょう(経費は国の予算から)。警察も関わるともなれば、犯罪者が同システムを悪用して詐欺を働こうとしたり、反社会的組織が自らのニーズを満たすために‘仕事’やメンバー探しに利用したりしようとは考えないはずです。

 多数の中小の一般事業者を傘下におさめ、高額の仲介料を要求する悪徳事業者やブラック企業まがいのネット事業者が横行している現状を考慮しましても(‘鵜飼いシステム’?)、ネットを利用したマッチング・システムについては、より安全で信頼性が高く、しかも救済措置も備えた高いオープンな制度設計が必要なように思えます。政府ではなくとも、○○事業者団体と言った同業者団体が、全ての同業者に開かれたシステムとして構築するという案もあり得るはずです。こうした方法ですと、サービス業であれば、検索条件に自宅との距離を加えれば、ご近所の○○屋さん’も生き残り、地方経済や地域コミュニティーも活性化するという副次的な効果も期待できましょう(中間マージンがないので価格も低下し、消費者にも恩恵が・・・)。

 経済発展の基盤が相互的なニーズの一致にある以上、公的マッチング・システムは、就職・求人のみならず、あらゆる分野において応用できるかもしれません。テクノロジーは、人類を豊かにするためにこそ活かされるべきであり、政治や経済において活用するに際しては、制度設計にこそ最新の注意を払う必要がありましょう。デジタル全体主義やIT大手による独占が懸念されている今日、技術の善用は、全ての分野に共通する人類が真剣に取り組むべき課題であると思うのです。

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