県道138号線、石岡つくば線を走ると、途中で不動峠を越す。
その名前の由来になった不動明王を捜してみた。
私は今まで、何十回となく不動峠を車で走っていたが、名前の
由来になった不動明王を見た事が無かった。
かつて、観察会のNさんに場所を聞いた事が有ったが「有るよ
しらないの」なんて言われて、聞く気が失せてしまっていた。
昨年、筑波山連峰の山の道を記録した手書き地図の写しを手に入れた。
そこに不動明王の場所の印が書いてあった。
今日は早めに家族を職場に送って、時間が取れたので、不動峠に
その不動明王を探しに行った。
私は先入観で、不動明王は道路の上の山側に有るものと思いこんでいた。
で最初は、道路の上側だけを捜して歩いた。
ところが何百メートル歩いても見つからない。
あきらめて峠に向かって登っているとき、何気なく道路の下をのぞいたら
石の祠と記念碑の様な物が立っているのが見えた。
しかも、そこは平らな小さい広場になっていて、ベンチまで有るではないか。
ところがガードレールで降り口が判らない。
少し道路を下ると、ガードレールの下にタイヤが置いてあり、そこには
宝篋・筑波山トレィルと杭に書いてある案内板が有ったが、肝心の案内板は
古びて文字が消えていた。
ただそこから不動明王の広場に向かう道がついている。
ガードレールをまたいで、その道を降りてゆくと、ベンチが二つ置いてある
小さい広場にでて、不動明王の石の祠と不動明王と書かれた記念碑のような物が立っていた
138号線の車道から見下ろす、石の祠と記念碑
宝篋・筑波山トレィルと書かれた杭の案内板、ここから入る
不動明王の祠に降りていく道
石の祠とベンチの有る小さい広場に出る
左が不動明王と思える石の祠(ほこら)、右は昭和31年に建てられた記念碑かな
石の祠のアップ、風雨にさらされて傷んでいるが、何となく
右手に剣を持っている不動明王の名残が有る。
不動峠のすぐ下の滝の入林道入口から出発して、不動明王の場所までは
およそ200メートルちょい。
道路下側の、杉林が切れた開けた場所についたら、下をのぞいてみよう
不動明王の前には、賽銭箱も無かったので、お皿に百円を入れて
我が家の安全祈願をした。
車には、草刈り道具一式を積んでいたので、そのまま保健保安林に
直行して、午後は草刈りに励んだ。
日差しと青空が有るのに、風が強く、肌寒いかんじがする日だった。
追記、Nさんに聞いた話、不動明王はおそらく江戸時代に造られたもの
ではないかという。付近の祠は、ほとんど江戸時代が多いというので
また県道138号線の元は、明治時代に陸軍の砲を運ぶ道として
造られたので、不動明王は道路の下になってしまったが、建てられた
当初は、山麓の山口から直接通じる旧道に建てられていたかもしれないと
そういえば、広場から谷に向かって下るような道が有りそうに見えた。
いつか確かめてみたい。
余談だが、不動峠の四阿の所には、茨城県を北限とする昆虫ヒメハルゼミの
案内板が立っている。
不動峠を下った菖蒲沢が生息地の一つになっているからだが、ヒメハルゼミの
有名な生息地、笠間市の片庭には、弘法大師とヒメハルゼミにまつわる
面白い伝説が伝わっている。
七会村の徳蔵姫という女性が、弘法大師に恋をしたのだが、弘法大師は
それに困り果てて、ある晩大師は七会村徳蔵を逃げ出し、片庭を通って
仏山をめざして立ち去ったという。
それを知った徳蔵姫は、後を追いかけて片庭の高い木に登り、あちらこちらを
見渡したが大師の姿は見えなかったという。
大声で泣くうちに、徳蔵姫の姿がとうとうセミに姿に変わってしまい
醜いセミに変わった自分の姿を恥じて、今でも鳴くセミの姿を人に
見せないのだという。
以前、この近くの鶏足山に登ったときにも、大師の伝説をブログで
紹介した事があるし、福島県の浄土平に行って、一切経山に登った
時にも、空海の名前の由来を書いている。