甘い生活 since2013

俳句や短歌などを書きます! 詩が書けたらいいんですけど……。

写真や絵などを貼り付けて、二次元の旅をしています。

清光館哀史(柳田国男)1926 その2

2020年08月23日 06時08分49秒 | 鉄道のこと

 2010年の12月に東北新幹線は、八戸―新青森間が開業します。それを受けて、東北本線の青森県内の区間は、青い森鉄道という私鉄に移管されてしまいます。

 新幹線ができたら、従来の路線を地元に引き継いでもらう形は、盛岡以北の東北本線でもありました。鹿児島本線の八代から出水、川内あたりまでの区間を肥薩オレンジ鉄道という地元負担の鉄道にしてしまったりもしました。九州だろうが、東日本だろうが、新幹線が通ると、従来線はもう管理したくないと投げ出すのです。そうせざるを得ないのだと思われます。あまりメリットないのかも……。

 JRさんは、どんなに過去の歴史があろうとも、お荷物になりそうな路線は切り捨てて、ドル箱になりそうな新幹線だけに全力を注ぐ形の経営をさせられています。新幹線の敷設というのは、会社の意志ではなくて、別のところに意志があるので、それを引き受ける以上、負担になりそうなものは、その地域にお任せするしかなかったのかもしれません。それ以上に大変なものも抱えているから、今まで基幹路線として生きてきた路線であれば、地域に任せても大丈夫という計算もあって、その地域や自治体に任せたのでしょう。

 本来であれば、そこで地域がいろいろなアイデアをひねり出して、鉄道で儲かることを考えればいいのだけれど、そんなに簡単なことではなくて、赤字は生まれ、税金で補填するという形は作られていくのでしょう。そもそも地域そのものがすでに鉄道離れしていて、自分たち自身がクルマで移動しているのだから、鉄道は必要のないものなのかもしれない。そこを目をつぶって鉄道を走らせようというのだから、赤字の負担は地域の自己負担にはなるんでしょうか。



 東北本線だって盛岡まではJR東日本のものです。そこから北側が投げ出してしまわねばならなかったものらしい。鹿児島本線だって、八代まではJR九州のものです。そこから南を切り捨てた。使えるところは自分のところで保持し、使えないところは任せたのです。

 北陸本線も、富山県に任せたところと、石川県に任せたところ、それぞれ別の会社になってしまいました。そこを通過していこうと思えば、両方の会社にお金を払うか、ポンと高いお金を払って新幹線で行くか、という選択を迫られるのです。

 と、口では言えますが、現実は、鉄道よりもクルマでブーンと走った方が早いし、安いから、だれも鉄道に乗ろうなんて思わないのかもしれません。かくして鉄道は、どんどんやせ衰えていくようです。



 公共鉄道というのは、人がたくさんいるところでは、走っているだけでお金は回収できるし、お金は機械とカードやスマホで徴収できる形ですね。けれども、田舎のローカル線は、設備投資もできないし、設備を維持するだけでお金はかかるし、いかに走らせないで、地元の足を守るかという矛盾した命題を突き付けられている。

 いや、ローカル鉄道は、走れば走るほど赤字になるというのが正しいのか。だから、お金を儲けるという企業の論理からすれば、もう切り捨てざるを得ない。けれども地方自治体としては、どうしてもその路線を確保したいし、バスではダメということで、細々と赤字の埋め合わせをしながら、走ることになります。

 赤字であれば、それが最低限の、負担できる範囲であれば、税金を使ってでも、赤字路線を守ってもらいたい、というのが私の希望です。無くしてしまったら、二度と鉄道は走ってくれない。

 だから、走っているうちに、いろいろな手立てを考え、アイデアを引き出し、地域の足を守っていかなくてはならないのです。



 都会の人には、そんなこと、どうでもいいことなのかもしれませんし、自分たちがそこに税金を使うということにはためらいがあるでしょう。自分たちの税金は、自分たちの生活に使ってもらいたい、それが素直な気持ちだと思われます。都会の人は、田舎のインフラにお金が使われるのは許せないでしょう。

 私たちの税金の現実は、とんでもないことに使われている。たいていは、自分が欲しないものに投入されていて、私たちはイチイチそれらをチェックする余裕も権限も能力もないから、自分たちが選んだ政治家さんたちに任せるしかないのでした。そして、私たちの願いはたいていどこか知らないところへ放り投げられてしまう。


 表紙の八戸線の地図は、たぶん、今の形だと思われます。岩手県の久慈まで南下して、そこから南は三陸鉄道ということになるんですけど、今はすべて開通したんでしょうか。何度も何度も、鉄道は災害などで引き裂かれ、再開するためには莫大なエネルギーが必要になるんだけど、今はどうなのかな。

 八戸線が今の形になったのは、1930年(昭和5年)のことでした。柳田国男さんがこちらにたまたま来られたのは、1920年のことで、クタクタになりながら三陸海岸の町を歩いていた。何か今までに聞いていない話はないか、とりあえずこの辺りに住む人たちはどんな暮らしをしているのか、どれくらい地元の方から話が聞けるかと、3人でチームを組んで歩いていた。

 お盆の夜に、陸中八木というところからほんの少し南に行ったところで、珍しい女だけの盆踊りを見つけ、その歌われている内容の解明もしたいともずっと思っておられた。

 そして、1925年(大正14)には、八戸から陸中八木まで鉄道はつながりました。夏の東北地方をお嬢さんも連れて講演活動をしていた柳田さんは(朝日新聞主催?)、お嬢さんにも、自分史上最高に思い出深い旅館の清光館を見せてあげようと思ったんでしょうか。こんな小さな旅館に泊まったんだよとでも自慢したかったか。お嬢さんと一緒ではなかったのか。


 また、長い前置きを書きすぎて、本題に入れていません。

 柳田国男さんの1926年の旅を書きたかったのに、余計なことを書きすぎました。

 次こそ、すっと入りたいと思います。1920年には八戸線は、岩手まで達していませんでした。青森県の東の端を南下するだけだったのか。それがどんどん伸びていった時代があったんですね。

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