甘い生活 since2013

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ブレードランナー2049 (コロンビア2017)

2017年12月07日 19時53分44秒 | だいたい映画、ときどきテレビ

 冒頭のコロンビアピクチャーの女神像の画面が揺れています。本当はクリアーなはずなんだけど、わざと画面を構成する画素の部分が荒れて見える。もうここから映画の世界に入っていくのです。

 これは、捜査官たちが映像分析等を出先で行うと、電波の関係や元データの不備等で、モニター画面にひずみが見えたりします。あれをそのまま応用していた。ブレードランナーって、画像情報が大事になってくるんです。未来って、そういうものなのかもしれない。

 それまでの長いCMが終わって、やっと「ブレードランナー」という映画世界が開かれようとしています。警察権力の末端で働く捜査官が主な仕事であるのがブレードランナーです。だから、いつもいろいろなデータ等を利用して、独自の動きをするレプリカントたちを取り締まらねばならないですし、レプレカントたちに一番大事なものが記憶で、彼らはその植え付けられた記憶をたどりたがることが多いので、捜査官もその方面からレプリカントたちを洗い出していくのでした。



 私は、昨夜のレイトシヨーで、20時40分からの上映で劇場にいます。お客はたったの3人しかいない。



 舞台は、2049年のカリフォルニア。温暖化の影響なのか、核戦争のなれの果てか、それとも、気候変動なのか、カリフォルニアを移動する捜査官のクルマにも雨や嵐、雪などが降りかかってきます。前作はいつの時代が舞台だったのかなあ、たぶん、2000年代初めで、とりあえず近未来の話でした。

 雨はやたらに降っていた。浮遊する広告塔やら、空中を飛び回るクルマと未来都市LAの姿が印象的でした。でも、もう前作から?十年が過ぎている。実際の映画としても三十年ぶりくらいだから、映画世界の中と外とで同じように時間が過ぎ去っているということになっています。

 前作でピラミッドのような巨大な威圧的建造物の中にあったタイレル社。そこで宇宙各地で働くサイボーグ(レプリカント)を製造しています。前作の時には、レプリカントには生命機能が一定の時間が来ると停止するように設定されていました(わりと短い寿命なのです)。それをもう少し長生きさせる方法はないのかと、宇宙からレプリカントたちがタイレル社に乗り込んで来たんでした。それらは旧式のレブリカントで、今回の映画では一度タイレル社が倒産し、それをウォレスという経営者が引き継いで、新型のレプリカントを製造するようになっていました。

 この人物がどういう人なのか、不勉強で、これから何回か見たら理解できるのかなと思い、今回は深く考えないことにしていました。この人の意図がイマイチ私には理解できなかった。
 
 新型レブリカントは、少し人間社会に同化するようにできているという設定になっていました。けれども、旧型とどのような違いがあるのか、それさえ私はわからないままに、映画はどんどん進んでいきました。

 映画の世界の中で、描かれる都市の姿は、前作同様の暗い未来都市なのですが、改めて感じたことがありました。

 前作は都市の中でデッカード刑事が都市に潜入したレプリカントと対決するのを中心に描いていました。だから、都市の中でドラマが完結していました。けれども、今回は未来都市LAとその外という区分けがあり、都市の外には都市空間を利用しないアウトサイドの人々が住んでいるようでした。それは逃げ出したレブリカントや都市機能に反対する人々、最下層の都市に住めない人々たちでした。

 今回はこの人たちとの接触をせざるを得ない状況に追い込まれます。なぜかというと、そこに逃走したデッカード刑事(ハリソン・フォード)や、今回問題となったリプリカントの赤ちゃんがいるはずだったからです。

 高層ビル群、居住区、夜にうごめく人々、そんなに街の中を走っていないクルマたちも、たいていは公共のものらしく、掃除をしたり、物を売ってたりしていたようです。要は、都市内部の人々はそれぞれが分断化され、個々に自分の生活を成り立たせているようでした。



 私たちの未来は、分断化された社会なんですね。それを最下層の人たちがとりあえず支持し、上流階級の人たちはますます肥え太っていく。

 もう、私たちの現在が未来を先取りしているんですね。世の中のトップの人たちはお金持ちで、優遇されている。本来なら、それは不公平だと指弾されるべきものでしたが、21世紀の社会では、もう許されていて、せめてその豊かな富を、少しでも貧しい人々に施してください。それを他力本願する、それが近未来社会なんですね。だれも、それを文句を言わないのが今風なのだ。

 未来は、分断化されていく。それをデフォルメして描いたのが今回の映画だったんですね。

 私は、全くの予備知識もないままに、前作のファンとして映画を見ていました。だから、折り紙が上手な刑事さんがすごく太って出てきたり、ハリソン・フォードさんが今の風貌で出てきたりしたら、とにかく懐かしかった。

 おそらくショーン・ヤングさん(レプリカントのレイチェル役)も出てきたようです。ちょい役ですぐに殺されてしまいます。彼女は今の顔で三十年前の役をやらされていました。すぐにデッカードさんに「これは新型のレプリカントだ。レイチェルではない」と見破られ、すぐに制作者の人たちに殺されてしまいます。このすぐ殺すのが意味がわかりませんでした。

 そうです。前作では、人はなぜ死ぬのか。生きるとはどういうことなのか。そういうのがテーマとしてあったので、命を奪うことには神経をとがらせていた。でも、今回はいくつもの命が奪われていきました。それがイマイチ、現在の私としても、心落ち着かないところではあります。



 今回のテーマは、三十年前、デッカードとレイチェルの間に双子が生まれ、女の子が死んで男の子が生きている。もう二十いくつになっているはずの人間とレプリカントの間の子を探すというのがメインの物語でした。

 そこにタイレル社の人々がからんできて、この人たちはなぜデッカードを探すのかがわからず、わからぬままに物語がどんどん進んでいくのでした。

 そして、イマイチしゃきっとしないあらすじ紹介をしながら、私はいまだにどんな映画なのか、つかめていないのです。

 これから、どれだけこの映画について語れるのか、どれくらいこの映画のことを知ることができるのか、自信はないのです。

 でも、もう少しだけ語っていきたいな。まだ、わからないところがあるな。いや、もっともっとたくさん知らないことだらけだと、よかったとも、悪かったとも言えないまま、1日が経過しています。

 何か光明が見える気がしませんけど、とりあえず見に行きました。世の中ではあまり評判にはなっていないようです。「スター・ウォーズ」の新作の方が、予告編を見ると何だか楽しそうです。でも、見に行かないと思います。テレビでも見ないかも知れない。

 もっとわけのわからん映画の方にあこがれてしまいます。

 その意味では、今回の映画は、よかったのかもしれない。痛快さはないけど、やんわりと来るかも知れない。



 ルトガー・ハウアーさんは今は何をされているんでしょうね。


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