甘い生活 since2013

俳句や短歌などを書きます! 詩が書けたらいいんですけど……。

写真や絵などを貼り付けて、二次元の旅をしています。

快慶さんの仏像を見まくる!

2017年04月30日 21時41分08秒 | 大和路を歩く
 2時間半かけて奈良市につきました。いつもの駐車場は混んでるかもしれないと、ヒミツの駐車場にクルマを止めました。

 ゴハンは奈良町で食べて、国立博物館に乗り込みました。



 とっかかりのところに、仁王さんが2つ。私たちをお迎えしてくれています。近ごろニセモノに慣れているせいか、これも模造品ではないかと疑って、いや、そうではないのだ。ここからずっと快慶さんの足跡をたどらせてもらうことになるのだ。

 気持ちを切り替えます。でも、あまりにオーソドックスな導入部です。ついいい加減に見てしまった。

 ここから、キリッとひきしまった快慶さんの作品をたどることになりました。

 彼ら慶派って、もっと鎌倉時代の主流なのだと思っていました。なにしろ、東大寺の南大門の仁王さんといい、その他大勢の有名な仏さまはすべて奈良系の慶派によるのだと。

 ところが、彼らは実はすでに主流ではなくて、京都にたくさんの仏像工房があって、そちらが主流であった。けれども、焼失した東大寺・興福寺の再建のためには、奈良の仏師さんに頑張ってもらおうと、彼らに白羽の矢が立ったようです。

 たくさんのお仕事をもらい、少しずつ鎌倉の世の中で、自分たちの作品作りができるようになっていくようです。そして、慶派の中でも、康慶と実子の運慶さんは主力として活躍していく。それで、快慶さんはどうなるの? と思ったら、こちらは運慶さんと同時代の人ではあるけれど、運慶さんとはひと味違ったテイストで仕事をしていきます。



 このポスターではわかりませんね。



 安倍文殊院の渡海文殊群像を作成指揮したのも快慶さんです。バシッとりりしい作品が得意で、人びとの度肝を抜いたり、繊細さに心を吸い取って見せたり、それはもう独自の仏師さんではあるようです。

 そして、今回、全国から快慶さんの作品が集まってきて、



 醍醐寺、高野山の金剛峯寺、宮津のお寺、伊豆のお寺、那智山、わりと後白河法皇との関係が深く、後白河さんのつながりで全国各地でお仕事をしたようです。



 そして、いくつかは明治の廃仏毀釈の嵐の折に、アメリカに渡ったりしたようです。そうか、実際に海を渡る仏さんまで作っていたんですね。

 奥さんと一緒に行きましたが、彼女はとにかく仏さまの今に伝わる神々しさや美しさに見とれて、「まあ、キレイ」と感心していたようです。

 快慶さんの仏さまは、見る人の心をとらえるパワーがあるようです。

 私は、構図やら、装飾やら、細工やら、美しさもさることながら、そうした細部に感心させられました。でも、基本は決まっていて、奇抜さはなく、ストレートにお顔や立ち方だけで仏を拝む人の心をとらえる何かがあるような気がします。

 運慶さんとどんな違いがあるのか、こうなると運慶さんもまとめて見たくなるし、せっかくだったら図録を買って、ながめまわすと少しは鎌倉時代の仏さまが身近になるのかもしれませんけど、私たちはその圧倒的な力に、少しだけダウンしてしまいます。何だか見終わったら疲れてしまった。いつもならもっと土産物を冷やかすとか、喫茶室で休憩するとか、奈良の時間を楽しむのだけれど、そんなことができません。

 でも、仏像と向き合う気持ちがやたらあって、いつもはスルーしてしまう昔の本館で、今は仏像館になっている方にも飛び込みます。

 そして、今度はガンダーラから日本の中世くらいまでの仏さまをずっと見続けます。特に何かを見たいというわけではないのだけれど、1つ1つの仏像さまに向き合う姿勢ができていたんでしょう。

 私は、そこでお顔も崩れかけた、薬師寺にあったという仏さまに出会います。長髪が左右から伸びている少し変わった数メートルくらいの像で、お顔がはっきりわからないのに、何だかとても雄弁に語っておられる気がして、今度はいつお参りに来るのかわからないけれど、とてもありがたい気分にはなりました。

 奥さんに、長い髪の仏さまがおられるよと教えてあげたのだけれど、彼女はそこは感心したんだけれど、それ以外はあまりピンと来なかったみたい。

 私は? ただの気のせいなのか、劇的な出会いなのか、それともこれから何度も仏像館参りが始まるのか、それはわからないけれど、何だかバーミアンの石仏みたいな、喪失感を感じました。

 それがどうなるのかわかりませんが、また来ようと思ったのです。



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