古い絵をスキャンして貼り付けたのは昨日でした。お仕事から帰って、遊んでいて、そんなおバカなことをしていました。
今日は余裕がありません。頭もいたいです。寝る時間も近いし、せっかくだから、古いネタで書こうと思います。
2040年には働き手が1100万人足らない、というニュースをやっていました。いつものように新橋の街頭インタビューをして、若い人は「ボクたちを支える人がいないんですね」と不安を口にしていました。まさに、年金の問題ですね。
日本の年金システムもいつまで持つのか、私はわからなくなっています。若い人たちのことを何も考えてないし、既得権益のある人たちばかりがしっかりシステムに乗っかり、今を支えている若い人たちはハシゴが外されるかもしれない。制度の運用者にはプランはありません。ただ、困ったなあと嘆いているだけです。
まさか、お金なんて印刷すればいくらでもできるさ、なんて思ってないだろうな。そんな政府が作るお札は、対外的には何の価値もなくなるだろうし、もう国内ではドルとか、元とかで支払いをしなくてはいけなくなるかもしれない。
「百万円持ってるけど、好きなものかっていいよ」と威張っても(設定が間違ってますね、百万で何が買えるというのでしょうね)、もう誰も相手にしませんよ。「一万ドルあるから、何か買いなさい!」という言葉がリアルで、百万円のお札の束(封筒に入ってしまうけど)も、世界で意味がなくなるのも時間の問題かもしれないな。
誰か、円の価値を高めよう、世界にここにしかないものを作ろう、そういうアイデアも枯れてしまっていますか? いやいや、今からでも遅くないから、もっと世界にないものを作れるところにならなくちゃ! 技術革新だけではないですよ。教育も、生活環境も、エネルギー政策も、政治システムも、いろんなことをもう一度私たちが見直し、みんなの声を生かして、みんなが豊かになれるものは何かを考えなきゃいけない。
世界中どこでもそうだけど、富は偏在しています。お金のある人たちだけが豊かに暮らし、貧しい人たちは厳しい環境を耐えている。私はもちろん貧しい人の群れに入ると思いますが、でも、ものではなくて、気持ちは豊かなつもりなんだけど、ズボンに虫食いをたくさん作らせるだけの余裕があるみたいで、まだ少しはましな貧しさかな。
ものなんて、どうでもいいから、気持ちだけは豊かにありたいな、というのは確かですね。
プータローだった時のことを書かなくちゃ! この和歌山の絵を描いてた頃、世の中はバブルの時代でした。私は遠距離恋愛をしていました。恋する彼女は東京にいました。ほとんど毎日、つまらないことを書き連ね、何日かに一回は手紙を出していました。当時は電話も毎日するなんていうのができなくて、彼女も電話もちではなかった。
やがて彼女が電話を引き、私は公衆電話から彼女にかける夜もありましたね。遠い昔の80年代の初めです。
自分がどうなるのか、いつになったらプータローが終わるのか、先が見えず、世の中がうらやましかった。私のところにはちっともバブルのかけらもなかったのです。
そんな時に、学生時代の仲間が集まり、みんなで和歌山に行ってみよう、ということで行きました。観光ではなくて、友だちに会うためだけに行きました。
でも、車窓から見る和歌山は、ものすごい光があふれていて、九州で夏に感じる痛いほどの光ではなくて、秋のキラキラがまだ残ってるような年末の光だったようです。
それで、まず、西の山に消えていく夕日を描いた。それから、どんどん光は消えていくのに、山には光が残っていて、やんわり輝いていた、そういうのも描いた。描かなくてはいられなかった。何だか自分の旅してきたことが、このままだと消えてしまいそうで、大晦日に何枚も描いたのだと思われます。
それから40年が経過しました。2040年なんて、すぐにやって来るだろうし、私はこの世にいないかもしれない。それはそれで仕方がないけど、だったら、せめて今の若い人たちのために、もっと役に立つことをしなくちゃ! 私にしかできないモノを作らなきゃ! いや、それは無理かな。変てこなものなら、変な絵なら、描けるかもしれない。だったら、明日にでも変てこな絵を描こうと思います。
今日は? 飲み過ぎなのか、頭が痛いです。晩ごはん、おいしすぎてムチャクチャ食べて飲んでしました。ああ、無計画。何もかも行き当たりばったりです。そんなですから、とても私らしいモノなんて、できないですよね。反省します。