もう四十年くらい前、仲間たちと和歌山に行きました。和歌山は光があふれていて、何から何までキレイでした。
そう、私の和歌山って、小四のころに最北端の友が島へ渡ったのと、小六の時の林間学校の高野山だけでした。そこから南にずっと長く深く海にとんがっている紀伊半島の和歌山には行ったことがありませんでした。
平安末期に後白河法皇などのたくさんの偉い方たちが何度も熊野詣もされたというのに、80年代までの私は、和歌山はほとんどすべて未知の土地でした。
だから、学生時代の友だち何人かで、和歌山にいる友だちを訪ねるというのは、夢のような話で、ホイホイと紀勢本線の快速で和歌山の田辺まで行きました。
今だったら、別の訪問の仕方があると思われますが、当時の私たちには、仲間に会って無駄話をして、夜にお酒も飲んで、あれこれ騒ぐ、これが大事でした。だから、何かを見るというのは、まるでその気持ちが起こりませんでした。けれども、旅の後で、あの時の光をとにかく写真は1枚もなかったので、絵を描かなきゃと何枚か水彩で描きました。
その時の山と夜の空、一生懸命あの時の微妙な色合いを表現しようという努力は感じます。でも、まあ、その時の記念というものであって、和歌山らしさは出せていません。
そして、それから何年かしたら、こうした和歌山を通り越して三重県に住むことになるわけですから、当時の何も知らない私は、少しずつ和歌山に触れようとしているところだったのかもしれません。出会いは、もう学生時代の仲間が用意してくれていました。
三重県の最南端で育ったウチの子のウシです。1996年の12月くらいに描いたのかもしれません。それを年賀状の版画に使おうとでも考えたんでしょう。使ったかどうだか、それは忘れてしまったけれど、親の注文に合わせてちゃんと描いてくれました。
昔の作品をこうして30年近く経過して発掘してみると、ウチの子のけなげさが伝わってきます。なんて、あれこれやってくれたんだろう。私は何をしてあげただろう、不安になってきます。まあ、せいぜい親として頑張るしかないかな。
そして、貼り絵アーチストであり、イラストレーターでもあるウチの奥さんは、色鉛筆でササッとクマの子がフキか何かの葉っぱで遊んでるところを描いてしまいました。これはたまたま私が保管していました。最近はまた画風が変わったかな。ちゃんと時代順に見ていかないといけないですね。
とにかく、私も、もっとちゃんと絵を描かなきゃと思います。思いはあるのに、パソコンで遊んで、時間が来たら寝るだけです。ペイントでだらしない絵はすぐにできますが、これは自分でいうのもなんだけど、イマイチかなと思いつつやっています。
明日から、また頑張ります。今日も本を読みます。でも、今読んでるのは『聊斎志異』で、おもしろいんですけど、ポカンとするだけなんです。それが困ります。