あと18年経過したら、この国は紀元2700年を迎えるそうです。大したものです。そんな年数なんて、想像もつきません。孔子さんだって生まれていないし、卑弥呼さんもいないし、始皇帝さんだってはるか昔です。
2700年からさらにこの国が大発展していくのか、私は想像できませんけど、国としてイベントをするんでしょうか(たぶん、しないと思いますが……)。そんなことよりも、これから人類そのものがどうなっていくのか、何百年も人々は生きていけるのかどうか、私はそれが不安です。「確かに今までは歴史はあったけれど、これからの遠い未来は真っ暗だ」という気持ちの方が強いんです。ペシミスティクなのかなあ。まあ、私の責任はほんの少しだけ、私も未来の若い人たちに借金を背負わせているのだと思うと、少しだけ辛い気持ちです。
人口は増えていくし、石油はなくなるし、原子力発電は経済優先のために推進されるし、地球環境はめまぐるしく変化していくし、エネルギーはどんどん消費されていくのでしょう。大規模災害も起きるでしょうね。
世界は、お金になるものなら、土地であれ、水であれ、マンションであれ、観光地であれ、世界遺産であれ、なんだってお金で投資の対象にしてしまいます。貧乏人は、投資はできませんが、お金持ちは、世界のカネもうけができるところに先行投資し、儲けが出たらそれを売りさばき、新しい儲け先・投資先を探すことでしょう。
というんで、お金のない人たちは、政府や老人たちなどを食い物にするために、次から次と新しい詐欺の手口を発明します。電話と仲間さえいれば、これまたボロい儲けがあるので、ターゲット・カモを見つけるため、コツコツと電話を続けるのでしょう。いろんな儲け方があるものです、恐ろしいくらいに。
人間たちが営む「国家」というものは、今の人々のために未来に返済不能なくらいの財政赤字を続けている。そもそも返済しなくていいという考えなのか、返済しなくても、次にまた借金すればいい、それが「国家経済」というものだ、という理屈なんだと思われます。
あろうことか、県や市町村、みんながそれぞれに借金することにして、みんな同じように未来返済を唱えている。だれがそれを返してくれるのか、返してくれる人の顔を想像したことがあるのか、私はそれが不安です。
「国家」って、そんないい加減なことでいいんだろうか。
国家による借金というアイデアを思い付いた人はすごいですね。国家は倒れないのだから、返済不履行にはならない。お金を返さなきゃいけなかったら、いくらでも印刷すればいいだなんて、それは禁断の手口ですよ。危ないです。
私は、橿原神宮にお参りしたんでした。1890(M23)年にできあがった神社でした。祭神は神武天皇で、この時は皇紀2650年に当たっていたようです。ちゃんと計算して造営したのか、たまたまだったのか、ここから日清・日露から第二次大戦までずっと戦争を続けるスタートになったでしょうか。
1945年まで数十年、国として戦争漬けの日々を送ったなんて、考えてみればとんでもない時代ではありました。でも、人々はその時代を生きてきたわけで、それはもうよく耐えたというしかありません。
ソ連が攻めてくる、アメリカが私たちの生活を締め付けるから、鬼畜欧米に対抗するためには「戦争」だ、なんて、みんな思わされたんでしょうか。
できれば、そういう危機感から一歩引いて、そうかもしれないけれど、それを回避する方法、オニのように見える相手と仲良くする方法、それを現代の私たちとしては身につけていきたいのだけれど、そういうことは可能ではないのかな。当時は無理だったかもしれないけれど、現代において、そういうことは可能ではないのか。なかなか簡単なものではないんですね。
神宮へお参りした後、前に一度来させてもらった洞集落への道を探しました。
畝傍山の北側にあった集落です。
日本という国が、世界に立ち向かい、さらに植民地を持ち、帝国主義的にそこから略奪・搾取して自国の利益とする、そういうことが許されると思っていた時代、新しいお社ができ、国としてのアイデンティテイを確立しようと、古い物語を分析し、現在の国家のルーツは二千数百年前にあったとしました。その最初の天皇をおまつりするために、御陵も作った。
いや、神武天皇陵は、1863(文久3)年に現在のところと確定していたので、その近辺に住む集落の人々を移転してもらい、あたり一面を国家の祝祭の場とした。
すべて着々と進められたことではありました。