甘い生活 since2013

俳句や短歌などを書きます! 詩が書けたらいいんですけど……。

写真や絵などを貼り付けて、二次元の旅をしています。

彼は帰らず、りんさんはひとり

2019年07月10日 20時59分47秒 | 戦争と平和

 石垣りんさんのエッセイ、まだ読み切っていません。

 こういうのを見つけました。

 (東京と房総の館山は)当時も日帰りが不可能ではありませんでした。にもかかわらず、その旅の困難さ加減といったら! まず汽車の切符が買えない。最寄り駅で行列して手に入らなかった私は、交番へ相談に行ったものとみえます。非番のお巡りさんが赤坂から総武線の始発駅だった両国まで同行して、出征軍人の家族のため特別に購入してくれました。

 私がものごころをついた時でも、汽車のキップって、簡単には買えないものだったような気がします。ましてや、戦時中、海軍に召集された弟さんが館山の洲崎航空隊にいたそうで、その弟さんに面会したいから、汽車で行こうとした時のことでした。

 食料品の不自由なとき、貴重なお餅を焼いてアルミのお弁当箱に詰め、会いたい一心で面会の許可も出ていない航空隊へ行ったのです。日曜日の静かな門前で「外出して留守だ」と告げられた私は、あきらめきれない思いで駅へと引き返しました。帰りの切符はありません。しゃにむに両国行の列車に乗ってしまいました。

 さあ、どうなるんでしょう。昔って、そうしたことが、ちょくちょくあったんでしょうか?

 途中検札に来た車掌さんにはどう咎(とが)められても仕方のない乗客だったのですが、車掌室に連れて行かれた私は、そのまま終点まで乗せてもらいました。せつなくも僅(わず)かに甘い青春の思い出です。それだって弟が帰還してくれたから言えることです。

 確かに、弟さんは戦死しないで、帰ってこられたんでしょう。だから、面会に出かけて、会えなくても、それは仕方がなかった。当時はそれくらい、すれ違いがあちらこちらで起こっていたんだで済むのかもしれない。

 この話のオチはどうなっているんだろう。

 去年沖縄へ行ったときは、野村さんのことを思っていました。この島のどこで息絶えたのかと。東京帝大仏文の学生で、学徒出陣のまえ日比谷公園で偶然会いました。「僕は戦争してきます、おりんちゃんは文学を勉強して下さい」。彼は私の親類の許婚(いいなずけ)でした。

 これにはビックリしました。

 石垣りんさんは、それからずっと、結婚もされず、数十年を生きていかれたんだな、だからこそ、サイパンの女たちへの共感というのか、宙ぶらりんな気持ちを持ち続けておられた。

 それは、サイパンだけではなくて、沖縄でも、同じように、いや、今まで以上に鋭敏に研ぎ澄まされて感じられたのでしょう。

 私には、そんな鋭い感覚はありません。でも、そういう方がいたのだ、ということはかみしめていきたいです。武器を持って戦った人たちだけが戦争をするのではなく、それこそ「銃後」の人々もずっと戦争を引きずって生きていかねばならないものなんでしょう。

 戦争というのは、すべての何もかもを引きずり、すべての人々の心に深い傷を与えるものなのだ、ということを知っておきたいのです。

 どこかのエリートの成れの果ての議員さんの語る「戦争」の無価値・無意味なこと、どうして言葉にこんなに無神経でいられるのか、そもそも「戦争」を語るなんて、恐れ多いことです。情けなくなります。それが日本のエリートの本質なのかもしれない。

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