甘い生活 since2013

俳句や短歌などを書きます! 詩が書けたらいいんですけど……。

写真や絵などを貼り付けて、二次元の旅をしています。

ワールドカップと孔子さん

2014年07月18日 22時08分37秒 | ザンネン日記・身辺雑記

 私はジンクスを信じていました。アメリカ大陸での開催の時には、必ず南米のチームが優勝するというジンクスがあったのです。でも、今回のドイツの優勝でこのジンクスは消滅しました。ですから、今度はヨーロッパのどこかで開催された時に、南米のチームが優勝してもいいことになりました。ぜひ、メキシコとか、今回新しい才能が出てきたコロンビアとか、次回ロシア大会で円熟期に入るメッシのアルゼンチンとか、名誉挽回をするためにブラジルとかが優勝してもいいのです。何だか楽しみになってきましたね。

 ワールドカップに新しい時代が来たのだと、考えを改めることにします。21世紀になって、FIFAのワールドカップは世界展開することになり、より大きく、より商業的に、変わってきました。単純に南米vs欧州が対決するワールドカップではなくなったのです。これから、アジアのチームが優勝するまでには、あと何十年もかかるかもしれませんが、タイであれ、中国であれ、アジアのどこかのチームが優勝する日が、あっという間の何十年で起こる気がします。日本がそのチームになれるかどうか、それはわかりませんけれど……。

 21世紀最初の大会、2002年日韓大会(初のアジア開催!)の優勝はブラジルでした。これで単独トップの5回目の優勝になりました。2006年のドイツ大会の優勝はイタリアで、ディフェンスが中心になってしまって、あまりおもしろくなかった(ような)印象があります。2010年の南アフリカ大会の優勝はスペインで、パスサッカーで強烈なイメージが残りました。世界の流行はパスサッカーになるのかという勢いでした。そのスペインがずっこけてしまうのだから、今回の大会は混迷したところもありました。でも、最終的にはディフェンスがしっかりして、両チームともに攻撃的なキーパーがいて、攻撃にはアルゼンチンはメッシ、ドイツはミュラー、クローゼなど多彩な攻撃パターンを持ち、どこからでも得点できていて、スキのないチームでした。ディフェンスがカギだったのですね。

 日本は、コートジボワール戦でも、コロンビア戦でも、ディフェンスがほころんで砕け散ってしまいました。開催国のブラジルでさえ、ディフェンスの中心のキャプテンが出られなくて、1-7の大敗をしたのですから、ディフェンスは大事だと思いました。

 ロシアの次は、カタールで開催だそうで、その次は、ヨーロッパに戻りますか? その後は、ふたたびアフリカか、トルコとか、そういうところでしょうか。4年後、8年後、12年後、16年後、果たして私は何をしているんでしょうね。ワールドカップ見ているんでしょうか? 好きだったプロ野球でさえ、なんだかつまらなくてパスする毎日だから、サッカーを見る楽しみもやがてはなくなるかもしれません。

 私は、何を楽しみに生きていくのでしようね?


 さて、孔子さんです。「宇治拾遺物語」で、こんな話を見つけました!
「八歳の童子孔子と問答のこと」というタイトルがついています。

 今はむかし、もろこしに孔子道を行ひたまふに、八つばかりなる童あひぬ。孔子に問ひ申すやう、「日の入る所と洛陽といづれかとほき。」と。孔子、いらへたまふやう、「日の入る所は遠し。洛陽は近し。」

 昔、中国に孔子さんという立派な方がおられました。この方が政治とは何か、生きるとは何か、そういうことを弟子たちと議論し合いながら、やっておられたのですが、そこに8歳の子どもが現れ、「日が沈むところと中国の洛陽の都とはどっちが遠いですか?」と質問しました。孔子さんは地球が丸いというのは知らなかったと思いますが、日が沈み、その先に何があるのか知らなかったので、はるか遠い世界があるというのは知っておられたでしょうか。とにかく、洛陽の方が何キロ先というふうに距離感を持っていたので、「洛陽の方が近いですよ。」と答えました。

 童の申すやう、「日の出で入る所は見ゆ。洛陽はまだ見ず。されば日のいづる所は近し。洛陽は遠しと思ふ。」と申しければ、孔子「かしこき童なり。」と感じたまひける。「孔子には、かく物とひかくる人もなきに、かくとひけるは、ただ物にはあらぬなりけり。」とぞ人いひける。

 孔子さんから答えを聞いた子どもが「太陽が出たり入ったりするのは自分の目で見ることができるが、洛陽は見たことがないし、ここからでは見えない。だから、洛陽の方が遠いのですよ」と、孔子さんに反論しました。孔子さんは、「なんだ、このクソガキ! 変なこ理屈をこねやがって!」と怒るのではなくて、
「賢い子どもだなあ。自分で確かめたものを証拠として述べるこの姿勢は立派だ!」と、ほめてあげたりします。

 平安の終わり頃に、孔子さんをあまりいいものとしてとらえていないお話が日本に入ってきて、それを中世の記録者が取り上げています。

 私は、孔子さんには親近感を抱き、このお話も孔子さんのどんな人の意見も聞こうとする姿勢が描かれていて、私たちにはなかなかできないことだというふうに感じます。私たちなら絶対「フン! バカなガキだぜ」と思うのです。それをしないのが孔子さんで、すごく立派です。どんな年齢になっても、若い人の声を素直に聞きたいし、若い人を支えられる人になれたらいいです。でも、それがすごく難しい。つい、無関心な気持ちになったりします。反省したので、メモしました。


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