
昨日、自己実現のことを書きました。私たちは自己の夢を追いかけさせられているのかもしれません。もう夢の理想国家なんて、何十年前に滅びたのでしょう。そういうのを平気で口にするヤツ。そういうヤツは絶対に信用してはならないのです。
国家なんて、権力を握りたいヤツらの集まりです。時には真面目な官吏もいるのかもしれませんが、たいていは野心の固まりという気がします。国家権力につながりたいから、そこに近づこうとしたわけですから。
議員さん、官吏、どちらも先祖代々つづいている家もあるでしょうから、自然に親の跡を継ぎたいと思った二世・三世もいるかもしれないけれど、それでも親の姿を見て、国家の運営とはこんなものだと慣れたところでやっているんでしょう。
当たり前のことを書きました。エリートにはエリートの道があるのだから、そこにたどりつくためのものすごい努力があったのだから、それは報われてしかるべきものなのかもしれない。
だから、政治や権力に、期待をしてはいけないのです。そこに集う人たちは自己実現のためにそこにいるわけですから、基本は自分たちのことをまず優先させるのです。
それも当たり前でした。

当たり前すぎてつまんないよ。
そうですね。でも、私は孔子さんの弟子志願者ですから、ついつい孔子さん的な理想を求めてしまうのです。あまっちょろいことを言ってるんです。
孔子さんは、若い頃は政治をめざしていました。何事も秩序を第一とし、相手に対する思いやりを第一にして行動し、政策・立案してきた人だったと言われています。
混沌とした時代に、各地の大名(諸侯)の誰もが、自分の勢力拡大をめざし、取ったり取られたりしていたのです。そうした秩序の乱れた時代に、筋を通そうとして敢然と立ち向かったのでした。
私のアイデアをどんどん採用しなさい。私はアイデアの宝庫です。なんて孔子さんは絶対に言いません。どうしたら人びとが従ってくれるか。どうしたら国家間の関係がうまくいくのか。君主とは人びとにどう向き合えばいいのか。家来は、家族は、友人はいかにして人とつきあうべきなのかをテーマに考えました。
すべて人との関係性を考え、それを動かす方法を考えた人でした。
当時の中国にはいろんな思想家がいました。人間を取り締まるには法律しかないのさという人たちがいました。この人たちの生き方は窮屈で、しんどそうでした。
徹底的に守りを固めて、その守備を固める集団化でピンチを乗り切ろうとしたグループがいました。なんだかここに入るのは大変そうで、あまり入りたくない感じです。
いやいやすべてがムダじゃ。何か人のためにするということからしてウソじゃ。そんなものは意味がない。何もかも投げ出して、人間の本性をむき出しにして、すべてを投げ出せばよいと考えた人びともいましたっけ。
もういろいろな思想家たちが生まれました。そこで孔子さんは、そんなむずかしいことではない。ただ人との関係性を第一に考えれば、自然と世の中はうまくいくのだと考えた。
政治を担当するのはあきらめて、弟子たちという人の集まりを形成して国家という形は持たなかったけれど、そのままずっと二千五百年不滅の集団を築き、今も少しずつ世界に拡大しているように思います。
経済も大事、自分が生活することも大事、夢を抱いてそこに向かって努力するのも大事。でも、他人を蹴落としても何もならない。個人が幸せになるということは、誰か別の人が苦しむことではない。みんなが幸せになれる方法がきっとあるにちがいない。それをめざそうではないかとお弟子さんたちに語りかけたのです。

ついつい私は、毎日の生活の中で孔子さんのことを忘れて、自分だけのしあわせを求め、自分だけの楽しみを優先させている。今も家族を放り出してブログばかりしている。
それでは何にもならない。それはわかっています。でも、生活が成り立たないのが怖いと教えられてきたので、ついジタバタしてしまう。本当は、大丈夫、なるようにしかならないさ、ということなのかもしれないけど、まだ怖さがあります。
飛んだらいいのかな……。
国家なんて、権力を握りたいヤツらの集まりです。時には真面目な官吏もいるのかもしれませんが、たいていは野心の固まりという気がします。国家権力につながりたいから、そこに近づこうとしたわけですから。
議員さん、官吏、どちらも先祖代々つづいている家もあるでしょうから、自然に親の跡を継ぎたいと思った二世・三世もいるかもしれないけれど、それでも親の姿を見て、国家の運営とはこんなものだと慣れたところでやっているんでしょう。
当たり前のことを書きました。エリートにはエリートの道があるのだから、そこにたどりつくためのものすごい努力があったのだから、それは報われてしかるべきものなのかもしれない。
だから、政治や権力に、期待をしてはいけないのです。そこに集う人たちは自己実現のためにそこにいるわけですから、基本は自分たちのことをまず優先させるのです。
それも当たり前でした。

当たり前すぎてつまんないよ。
そうですね。でも、私は孔子さんの弟子志願者ですから、ついつい孔子さん的な理想を求めてしまうのです。あまっちょろいことを言ってるんです。
孔子さんは、若い頃は政治をめざしていました。何事も秩序を第一とし、相手に対する思いやりを第一にして行動し、政策・立案してきた人だったと言われています。
混沌とした時代に、各地の大名(諸侯)の誰もが、自分の勢力拡大をめざし、取ったり取られたりしていたのです。そうした秩序の乱れた時代に、筋を通そうとして敢然と立ち向かったのでした。
私のアイデアをどんどん採用しなさい。私はアイデアの宝庫です。なんて孔子さんは絶対に言いません。どうしたら人びとが従ってくれるか。どうしたら国家間の関係がうまくいくのか。君主とは人びとにどう向き合えばいいのか。家来は、家族は、友人はいかにして人とつきあうべきなのかをテーマに考えました。
すべて人との関係性を考え、それを動かす方法を考えた人でした。
当時の中国にはいろんな思想家がいました。人間を取り締まるには法律しかないのさという人たちがいました。この人たちの生き方は窮屈で、しんどそうでした。
徹底的に守りを固めて、その守備を固める集団化でピンチを乗り切ろうとしたグループがいました。なんだかここに入るのは大変そうで、あまり入りたくない感じです。
いやいやすべてがムダじゃ。何か人のためにするということからしてウソじゃ。そんなものは意味がない。何もかも投げ出して、人間の本性をむき出しにして、すべてを投げ出せばよいと考えた人びともいましたっけ。
もういろいろな思想家たちが生まれました。そこで孔子さんは、そんなむずかしいことではない。ただ人との関係性を第一に考えれば、自然と世の中はうまくいくのだと考えた。
政治を担当するのはあきらめて、弟子たちという人の集まりを形成して国家という形は持たなかったけれど、そのままずっと二千五百年不滅の集団を築き、今も少しずつ世界に拡大しているように思います。
経済も大事、自分が生活することも大事、夢を抱いてそこに向かって努力するのも大事。でも、他人を蹴落としても何もならない。個人が幸せになるということは、誰か別の人が苦しむことではない。みんなが幸せになれる方法がきっとあるにちがいない。それをめざそうではないかとお弟子さんたちに語りかけたのです。

ついつい私は、毎日の生活の中で孔子さんのことを忘れて、自分だけのしあわせを求め、自分だけの楽しみを優先させている。今も家族を放り出してブログばかりしている。
それでは何にもならない。それはわかっています。でも、生活が成り立たないのが怖いと教えられてきたので、ついジタバタしてしまう。本当は、大丈夫、なるようにしかならないさ、ということなのかもしれないけど、まだ怖さがあります。
飛んだらいいのかな……。