先日、たまたま内宮のすぐそばで宿泊することがありました。
だったら、朝の内宮にお参りするでしょ! と、睡眠不足だけど、5時半くらいからお参りに行きました。
宇治橋のたもとに警護の人が薄暗いところでじっとこちらを見ていました。
お人形さんかなと思いつつも、やはり、人間らしい。
誰もいないのかと思っていたら、先客は何人かいました。
★ ウインドウズの更新をしているので、ここでやめときます。また明日!
★ ウインドウズはまだ更新をしています。本当に更新なんだろうか。誰かにうちのパソコンが乗っ取られているんじゃないのだろうか。
まさか、そんなことはないと思うけど、今夜も不安ながら、もう少し内宮さんのことを書きたいと思います。
内宮に行くには、橋を渡らなくてはならなくて、その橋の名前は「宇治橋」と言います。どうしてそんな名前なのか、よくはわかりませんけど、伊勢市は、宇治地区と山田地区があって、合わせて宇治山田としているし、昔は「山田奉行所」というのがあったり、宇治地区との対抗戦があったり、競い合う二つの地域があったらしいから、宇治地区の橋ということなのかな。
いい加減なことを書いていますので、よくはわかりません。
宇治橋の向こうに神様がおられます。私たちは、この橋を越えないと、神様のおそばには行けません。ということですから、この橋は象徴的な場所です。
つい左側を歩きたくなるのは、クルマの感覚かな。でも、こちらでは右側通行になっていて、右側から回り込むように神様のところに行かせてもらうことになります。
橋を渡ったら、植え込みがしっかりしてあって水面は全く見えません。でも、川に沿って上流に歩いている自分を感じながら、少しずつ神様の世界に近づきます。
お手洗いが設定してある場所には、こちらから奥にはトイレはありませんと書かれています。もう小さな橋を渡ると、トイレにも行けなくなります。
橋を渡ると、御手洗があります。いつもなら丁寧に両手を洗うのだけれど、この朝は、絶対に五十鈴川で手を洗おうと決めて、御手洗はスルーしました。
さて、雨で少し増水して水も濁っている五十鈴川、ここで手を洗いました。妻のお母さんは、「一度、五十鈴川を見たかった」と言っておられましたが、とうとう見せてあげられませんでした。長女夫婦が三重県に住んでいるのだから、見てもらえたらよかったのだけれど、いろいろと忙しかったんですね。
人生は、悔いるためにあるようなもので、私はもう悔いだらけ。何一つ満足にできたことがありません。もちろん、今日だって、ろくなことはできていないし、明日もパッとしないでしょう。
でも、だからこそ、せいぜいやれることをやる。誰かのために、つまらないことでもする。そう思うしかありません。
誰もいなくて、雨も降っていて、薄暗いし、早くお参りをしなくちゃいけない。
そもそも、前夜はほとんど眠れていないのに、それなのに、朝からお参りなんて、ムチャしてますよ。オッサンの私、大丈夫だったのかな。まあ、アドレナリンが出ていますからね、ホイホイ歩いていきます。
いつもは素通りするお札・お守りなどの授与所、こんな時間から祢宜さんたちがスタンバイしています。このほんのりした明かりもホッとするものがあって、もちろん私は買わないのだけれど、お迎えしてもらって有り難かった。
そして、ずっと奥の正殿にたどり着きます。写真は下からしか撮れないので、とにかく暗い中で神様のおそばまで来させてもらった記念として撮りました。
鳥居と薄暗い感じしかないけど、これまた有り難い写真です。
私は、たまたま内宮に朝からお参りできそうです。ただ漠然とお祈りだけしかすることはないのですけど、顔を出させてもらった、神様にここにいますよとチラッと自分をほんの数秒アピールできた、それだけでしあわせでした。
あんまりグダグタしていてもいけないので、サラッとお参りして、スタコラサッサと帰りました。帰りは内側を歩いて、わりとすぐに宇治橋のところまで戻ります。
まだ早いから、お客さんはそんなにいません。
宇治橋を渡れば、人間の世界に逆戻りです。そこではただ雨が降っていて、私は朝から疲れていて、それでも仕事があって、しかも夜遅くまでずっとあるという現実が待っています。
神様のおそばに近寄れたしあわせを胸に、ありきたりの現実をヨッチラオッチラ歩いていくのでした。