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奥様がいないと、時間も空間もスカスカになります。だったら、そのスカスカをいろんなもので満たしたらいいじゃないの! と思いますが、簡単なことではありません。彼女はあとしばらくは帰ってこないそうです。残念です。
昨日、お見舞いに行ったら、何だか今にも帰れそうなのに、それでもピンポイント、ある一点だけが気がかりで、帰れないんだそうです。とうとう今日は病室も変わって、狭くて息苦しい部屋に移動させられたそうです。確かに、彼女はもうそこだけがよくなれば、普通の生活に戻れるらしい。ただその一点だけです。
何だか在阪球団の某監督みたいなこと言ってないかな。もっと素直に言えばいいのに、何だか言えない。とにかくあと少しです。
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いくつものイメージがあるんですよ。紙ねんどの袋を開けたら、すぐに何か新しいものが生まれたりとか、うちの庭木の切ったものから彫り出してみようとしたら、すぐに仏さまが出て来るとか、そんな簡単なものではないのに、いつもイメージ先行の私は、そのイメージを形にしなきゃと彫刻刀で彫ってみたのです。
まずは木の皮から剥がなきゃいけなくて、十五センチくらいのまっすぐな節のない枝をはいでみました。そうすると、白い内部が見えてきて、「おっ、仏様が見えた!」と思ったけれど、それは気のせいで、実はただ皮をはいだだけでした。いつか仏様が彫り出せるかもしれないけど、今日明日のことではないようです。
でも、彫刻刀でわけもわからずに彫り続けるのはいいことです。何も考えてなくて、ただ自分のイメージを追いかけています。それは簡単には目の前には現れない。ずっと頭のどこかにはあるけれど、実体のあるものではない。そして、たとえ彫り出せたとしても、自分のイメージ通りであるとは言えなくて、何だか変てこりんなものであるには違いない。
そんなバカなことはやめて、もっとタメになることをしろよ! と、誰かが言ってくれたとしても、「ヘヘン、オラにはちゃんと見えてんだ」とウソぶくはずです。見えてはいないけど、どこかのイメージの片隅にある気がするのです。
そんなすぐ近くにあるイメージさえも手に入れられない私たちでしたね。他の人も、だいたいはそんなものだと思いたいです。
みんなは、イメージ通りのものを手に入れているんだろうか。だったら、それはいいですね。私は、イメージがあいまいで、先走って何にもならないことがよくありました。イメージの中ではこんななのに、現実はこんなだ、なんてしょっちゅうでした。
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そんなのでいいですね。イメージは逃げていく場合もあるけど、追いかける価値はあります。どれだけ追いかけられるかです。
漱石の「夢十夜」という作品に、運慶さんが木からドンドン仁王さんを彫り出すという場面がありました。
あまりに見事に彫っていくので感心した自分に、見ているコメンテーターがこう言いました。
「なに、あれは眉や鼻を鑿(のみ)で作るんじゃない。あのとおり眉や鼻が木の中に埋まっているのを、鑿と槌の力で掘り出すまでだ。まるで土の中から石を掘り出すようなものだから決して間違うはずはない」
なんて言うんですよ。夢の中の自分も、「この時はじめて彫刻とはそんなものかと思いだした。はたしてそうなら誰にでもできることだと思いだした。それで急に自分も仁王が彫ってみたくなったから見物をやめてさっそく家へ帰った」りするんですよ。
もちろん、夢の通りには行かないし、運慶の名人芸だから、仁王さんが出てくるんです。これが不思議です。名人芸を持たない人間がいくらジタバタしてもダメです。そういう人間は時間をかけて、何度も失敗して、自分の仁王さんを見つけるしかないわけです。
当たり前なんだけど、私は木の皮をはぐだけでも、またやりたいです。何だかキレイになって出てくるから、それだけでうれしかった。