「古譚」とは、古い物語という意味になるのでしょうか。アイヌ語の神様のおられる場所という意味の「神居古潭(カムイコタン)」というのがあったけれど、文字が違いますもんね。「墨東奇譚」(永井荷風)と同じだから、物語なんです。
ベースは陶淵明さんの「桃花源記」でした。どんな話でしたっけ。
漁師さんがいて、川をさかのぼっていくんでした。きっかけは川沿いの桃の林でした。普段から川でお仕事をしているのだから、桃の木が川に沿ってある場所なんて知りつくしているはずです。でも、この時はたまたまきれいだなと見とれて、どんどんと川をさかのぼってしまうのでした。慣れたところでも、木々に花が咲いているだけでも驚きですが、それが一斉に花をつけていたら、仕事を忘れてこれらをすべて見終わってから仕事をしよう、という気分の時もあるんでしょうか。
まあ、お話ですから、漁師さんが桃の花の見事さに心打たれないと、成立しません。それからさかのぼっていくうちに洞穴に着いたそうです。
これも、普通であれば、そんな危ないことはしません。しかも仕事中であれば、絶対に探検なんてしてはいけない。でも、お話ですから、穴の中に入り込みます。
詩を見てみましょう。
さぐりさぐり進むうち 穴は少しずつ大きくなり
やがて豁然として 目の前がひらけた
そこに一つの集落があり
のびのびとひろがる田畑の見事さ
家並みのすがすがしさ
道は四方にゆきかい 鶏や犬の鳴きかわす声も
どこで聴くよりも快適である
人はパラッとしか居ないが 老人も子供も
実にのびやかに 屈託なげで いい顔の相ばかり
桑の木も肥えている
村人は漢はおろか魏も晋も知らない
陶淵明さんのオリジナルを忠実にたどっています。そこは不思議な隠れ里でした。誰も知らない不思議な空間に、時空を飛び越えた人々が住んでいた。何百年も昔の秦末期の混乱を避けてこの別天地にやってきた人々でした。
やがて漁師さんは、故郷に帰り、数日を過ごした隠れ里のことをお役人様に報告してしまいます。そういうのを報告して、ご褒美をもらおうと思ったのでしょう。
そして、お話ですから、隠れ里は見つからず、漁師さんの話はただのお話になってしまいました。隠れ里はあったのか、漁師は夢を見ていたのか、すべてはなぞのままに物語は終わります。
一人だけ英雄の人がいて、ずっと探し続けたというお話もあるけれど、お話ですから、本当にそんな人がいたのか、私たちは確かめることもできません。
中国の湖南省に「武陵桃源」という観光地があるようで、いくつもの岩の柱が連なり、そこに木々も生えていて(山が侵食されて硬い所だけが残ったのでしょうか?)、仙人が飛び跳ねているようなところがあるみたいです。でも、これは陶淵明さんが名付けたのではなくて、80年代の胡耀邦さんが付けた名前だそうで、陶淵明さんとは関係がないようです。
胡耀邦さんも、各地を訪れて観光開発にも力を入れていたのに、亡くなってしまって、彼の起こした新しい動きは1989年の天安門事件以後は全くもみ消されてしまいますが、こんなところに名前が出てくるなんて! 習近平さんにはできないことですね。彼は建物にこもって、いかに権力を維持するか、そのことばかり思い悩んでいるでしょうから。
陶淵明の「桃花源記」は
老子の八十章を下敷にしているらしい
が 老子のは簡潔きわまりない
桃林さえどこにもない
老子の八十章を下敷にしているらしい
が 老子のは簡潔きわまりない
桃林さえどこにもない
そうですね。陶淵明さんは、どちらかというと田園派ですから、政治の世界・人間の世界でいかに生きていくのか、そういうのは考えたくない人でした。老子さんの世界なんですね。「小国寡民」という老子さんの思想をベースにしている。そりゃ、大きな国になると、いろいろ面倒なことが出てきますもんね。
老子の短い数行は わずかに言外に
これが私の理想境といっているにすぎない
老子から陶淵明まで約一千年は経過していよう
その間に重く苦しい生活は更にすすんだのだ
ひとびとの桃源境への あこがれの仮託
陶淵明から今日まで更に千五百年あまりの月日が流れた
もう人間の社会・歴史というものが動き出して何千年も経過しているのですね。現実世界を逃れ、のんびり平和に暮らしたい。なのに、そのささやかな希望はなかなか許されなくて、現在の私たちのようにいつも何かにカリカリしなくてはならないのです。のんびりした理想郷なんて、夢のまた夢です。
桃の実る頃にふる雨は桃雨というらしい
いま 我が家の屋根を濡し 土を濡し
かそけくも降りくるものは まさしく桃雨であろう
こどもの頃に読んだとき
桃源はあえかに霞のたなびいて いい匂いのする
辿りつけない夢幻の里でしかなかった
いま 我が家の屋根を濡し 土を濡し
かそけくも降りくるものは まさしく桃雨であろう
こどもの頃に読んだとき
桃源はあえかに霞のたなびいて いい匂いのする
辿りつけない夢幻の里でしかなかった
茨木のり子さんは、こんなステキな桃の林に降る雨のことを書いておられます。でも、いったいどれだけの人がそんな雨を感じられるのでしょう。農家の人だって、雨だったら、作業が面倒だなとウンザリする時だってあるはずです。
要は、どんなところでもいいから、すべての現実を受け入れ、そこに自らの理想の物語をプラスしていく、お話の努力が必要なのかもしれないです。
私ひとりのなかにも
あれから敗戦をはさんで三十年の月日は流れた
ふたたびめぐりあった古譚に 私はいま
まるで違った物語を読んでしまっている……『人名詩集』(1971)より
あれから敗戦をはさんで三十年の月日は流れた
ふたたびめぐりあった古譚に 私はいま
まるで違った物語を読んでしまっている……『人名詩集』(1971)より
茨木さんは、どんな物語を読んでおられるんでしょう。私は、理想も何もなくて、ただ絵空事にしか見えなくて、何だかボンヤリとした日常の中にいます。
理想も語れない。物語も思い浮かばない。外にも行かない。どうしたらいいんだろう。何がしたいんだろう。
そうです。香川の友人が「ペヤング」の焼きそばを40年以上見たことがないということなので、彼に送りました。私は、ペヤング焼きそば、食べたことがないかもしれない。いつも日清のUFOだったのかも……。何やってんだろう。