これは去年見に行った青森市のねぶた像でした。青森のねぶたは立体的で、骨組みなど構造的に作られて、そこにデザインされていたキャラクターの色がついていきます。地域のいろんなところのバックアップとアルバイトと、そこで踊りたい人々の情熱が合わさって生き生きしてくるおまつりでした。
青森から西南西に弘前という街があって、そこでもおまつりはあるみたいですが、そこではふくらんだ扇状の山車があって、その扇部分に絵が描いてあって、こちらは「ねぷた」と呼ぶようです。五所川原にも、八戸にも、もっと他の町にもそれぞれのおまつりがあると思いますが、青森と弘前がツートップでしょう。
その弘前ねぷたの山車の絵、こちらは構造物はないので、絵を貼り付けるだけ、となると、その絵こそが大事で、それは受け継がれた伝統の技があるようです。
そして、たまたま昨日テレビで見たのは、中一の男の子がねぷた師としてデビューした。ちゃんと師匠に見守られながら、任された絵を作り上げたというものでした。
弘前の子どもさんには、ねぷたの絵を描きたい。それを専門に磨きたいというあこがれの道があるようで、その男の子は、日常生活は普通に笑う中一の男の子だったのに、ねぷたに向き合う時は表情が変わって、業師になっていました。そうしたスイッチのオン・オフがあるようでした。
それでふと思いました。世の中に絵を仕事にしてみたいと思う子どもたちがたくさんいるのに、私たちの社会はそういう子どもさんに対して、「絵なんかでは食べていけない。生活ができない。どんなにしてお金を稼ぐんだよ」という問いを突き付けて、本人たちをガッカリさせる日常です。
絵が仕事にならない社会を作ったのは私たちでした。そして、絵を学ぶところといえば、芸大に入るためのデッサン教室と、入ってからは大学にすべてお任せで、もちろん大学としても、卒業後は仕事はないから、自分の進路を考えながら学んでください。方向性を広く持ってください。芸術を学んだというのは、社会では何のメリットにもならないから、せいぜいなれるとしても学校の先生くらいだけど、それさえまともに採用するところがどこにあるだろうという、はなはだ未来の見えないままの大学生活を送らせるしかない。
絵を学ぶことは、絵とは、そんなにお金にならないものなのか、誰も絵なんか求めてないのか。
私は、そんなことはないと思うのですよ。本当はいろんなところにセンスのある人に入ってもらって、いろんな形でデザインし、イラストを入れ込み、配置を考え、レイアウトを面白くし、いろんなビジネスに通じる道はあると思うのです。
そういうのを芸大がどれだけ提供してくれているのか。学問的なことは従来のことばかりで、そのセンスや才能を生かすには、どんなことを学べばいいのか。たとえば、絵ばかり書いている子にデジタル技術を学ばせたり、建築の資格を取らせたり、配色学とか、経営学とか、多角的に学ぶことができたら、そして、大学だけじゃなくて、小学校の頃から、絵を学ぶことがいろんなことを学ぶ、国語・数学・理科・英語・社会・音楽その他に通じる学びの場、そういう塾みたいなのがあればいいけど、そんなの、言うのは簡単だけど、実際に作るのは難しいから、ありきたりの五教科の塾しかできないだろうな。
でも、それでは閉塞感から抜け出せないと思うんだけど、私はただの思いつきで書いてるから、何も実現しないだろうな。でも、考えたいです、もう少し。