先日、大阪へ行き、母に九州新幹線の乗り方を伝えるため、わざわざ新大阪駅に行ったのは、理由があります。
緊急事態で、母だけで単独でカゴシマに行かなくてはならなくなった時、一通りのコースを伝えようと、バス・地下鉄で新大阪に行ったんでした。
実際に行かなくてはならなくなった時、たぶん、弟がクルマで新大阪まで連れて行くと思うのですが、とりあえず、母だけで行けるとわかったら、母も少しは気分が楽かなと行ってみました。
母は、「私もひとりで行けそうやわ」と言ってましたが、それなりに不安はあると思います。母は父とならカゴシマに行けましたが、今は膝とか悪いし、階段は苦手だし、キップを買うのも面倒でしょう。
私がついていってあげればいいんだけど、仕事もあるし、母のお供はできないかもしれない。
もしもの時というのは、父方の叔母がもう危ないという話が出ていて、その時に母が行かなくてはならなくて、その予行演習でした。
叔母は、現役の時は、とてもしっかりした人で、カゴシマから大阪に出てきて、どこで資格を取ったのか、そういう話は聞きそびれてしまいましたが、とにかく看護師となり、しっかり者ではあったので、あちらこちらの病院の婦長さんとして引き抜かれたり、それなりにどっしりとした風格のある人でした。
父は、学生時代はそれなりに優秀だった、ということになっていますが、エキセントリックだったり、こらえ性がなかったり、仕事も落ち着かなかったりで、カゴシマと大阪を行ったり来たりしていましたし、何がやりたいのか、誰が好きなのか、どこで仕事をするのか、あれもこれもわからないことが多い人でしたけど、
叔母は違います。もう、若い時から一歩ずつ自分の道を歩いていた。旦那さんは、どこで知り合ったのかわからないけれど、岡山県の人で、二人が結ばれる時には、その時にはうちの父が相手の人の実家に乗り込んで、二人の縁談をまとめたりしましたが、それ以外は叔母さんとその旦那さんは、着実に大阪で自分たちの足場を築いていました。
でも、二人にはお子さんはなく、二人がしっかり働いても、それを受け継ぐ人がいませんでした。
それでも、二人は、最終的にはふるさとに帰ろうとして、大阪のおうちを畳んで、ふるさとにおうちを建てて悠々自適の生活を始めました。
やがてその時が来て、旦那さんは亡くなり、旦那さんの遺産は、岡山から親戚の人が来て、全部持っていったということでした。
それを聞いて、どれくらいのつきあいがあったのかわからないけれど、もらえる分は親戚がすべて持っていくのだと、何となく悲しくなりました。
叔母さんは、そのままひとりでふるさとに住み続けていましたが、やがて自分では物事が決められなくなり、叔母さんにとっては姪っ子になる、叔母さんを慕って看護師の資格を取った子が財産管理・健康管理をすることになり、もし叔母さんが亡くなったらある程度を受け取るような状態になっているようです。
叔母さんは、姪っ子に財産を残すために一生懸命に働いたわけではないでしょう。でも、晩年のお世話をしたので、姪っ子(私と同じ従姉)さんはそれを受け取るでしょう。
私は、一応叔母さんとのつながりはあるけど、そんなに深いものでもなかったし、いくらもらっても、それを生かすこともできないし、もう姪っ子さんがいいようにしてくれるだろうと思っています。
あまり考えたくもありません。
そんなんじゃなくて、どれだけ叔母さんと関われたかなのです。少なくとも私はそれほど関われてないし、叔母さんに何かしてあげたわけではないし、ただ父の妹さんである人が、今危なくなっているというので、少しだけ胸を痛めているだけです。それもほんの少しだけ。
最後に会ったのは、2011年の冬でしたから、もう七年経過しています。その間、会おうと思えば会えたかもしれないのに、「もう会ったとしても、私だとわからないだろうし……」とか言い訳して、会おうとはしませんでした。そうです。叔母さんは、父の葬儀にも参加できないで、カゴシマで入退院を繰り返していました。
叔母さんは、看護師だった時、それはもうたくましい存在だったでしょう。私が胃腸を壊して人生初の胃カメラというのをしたのも、叔母さんの病院でした。
そんなタフな叔母さんも、今はだれともおしゃべりなどできなくなっているようです。
ああ、もっと叔母さんから話を聞いておくべきでした。でも、もう遅いです。
私は、いろんなチャンスを逃しまくり、たいていの時にはボンヤリしたままで、頭は回転せず、ただそこにいるだけだし、役に立っていませんでした。そして、後になってあわてて「たら、れば」という話を蒸し返している。
もう遅いのです。
この年末、カゴシマに行くチャンスがあれば、叔母さんに会ってこようと思います。会話はできなくても、とりあえず、オッチョコチョイでいい加減な甥っ子として会ってきたいと思うのです。