何万年に一度見られるという彗星が来ているらしい。早朝や日没後に見えるということだった。彗星とは、どんなものだったのか、何十年か前にハレー彗星が近づいてきたという時も見逃している私は、今回こそは見逃してなるものかと意気込んではいました。
けれども、ちゃんと見られるものではなくて、写真で見せてもらったり、他の人たちがテレビやネットで語り、見せてくれたものを有り難く拝見するだけでした。残念でした。たぶん、見られたとしても、どれだけの感動があったのか、わからないけれど、ひねくれ者の私のことですから、「ああ、こんな感じか」と気持ちをはぐらかせたりしたでしょう。
どうしてもっと向き合わないのかなあ。ちっとも事態は進展しないじゃないの! と思うのです。でも、まあ、ちゃんとは見そこないました。
皆既日食の時もそうでした。もう十何年か前でしたね。あの時も朝からずっとソワソワしました。木漏れ日から漏れる光も日食の形をしている、というのを確認して、それなりに感動したのに、すぐに忘れてしまった。ただ、落ち着かないのと、みんなが騒いでいるのと、乗り遅れたらダメだという焦りと、何も知らないともっとボンヤリしていられたのに、何だか何も手に着かなかったものでした。
今回もそうです。夕方のたびに、西の空にほうき星がすそを引いてないかな、なんて見上げたものです。でも、日ごろの心構えが悪いからなのか、何も見えなかった。そして、町の明かりと、西の方角につめかける雲たちとで私の希望は閉ざされてしまいました。
たぶん、見えていたのです。そういうことにしましょう。見えたのです。キレイだったのです。いつもの空が何だか不思議な空間になっていたのです。じっと見ていたかったけれど、写真を撮りたいとじっと見つめることをしなかったのです。もったいないことです。そして、ふと目を離すと彗星は西の空に紛れ込んでいたのです。
そういうことにします。見てはいないけど、見ようとしてソワソワしたのは確かです。何万年に一回というチャンスは、達成したのです。よくはわからないけれど。
そして、明日からは、そんなことに関係なく生きていくのです。朝ごはんを食べ、お昼は奥様が作ってくれたお弁当を食べ、夜はお酒を飲んで満足することでしょう。ほんの少しでフラフラになります。近ごろは飲み過ぎると、不調になるから、ほんの少し、またはノンアルで酔うことでしょう。お休みの日は、奥さんと出かけて幸せになるでしょう。家の中が片づくと幸せなんだけど、それはなかなか達成されない。今からでも、少しでも片付けするかな。