四日の夜になりました。昨夜からずっとものすごい風が吹き続けました。おそらく、寒気団が来ていたんでしょう。でも、朝、クルマをのぞいたら、氷も何もなかったから、寒さとしてはそれほどでもなかったのかなぁ。
いや、氷がつくのも許さない風が強く吹いて、カラカラに冷えてたんでしょうか。それなりに寒いとは思ったんです。
実は今日もお休みでした。そして、何もしなかった。
何ということかなあ。
それで、昨日、帰って来る時に、室生寺というお寺に行ってみました。四年何か月ぶりでした。前回は、こんな写真を撮っていました。
アジサイが咲いていて、七月の初めでした。
有名な五重の塔とか、たくさんの仏さんのおられる金堂とか、そういうのは撮らなかったようです。光と草木を探していたようです。見つかったのかどうか、そういうのが目に入ってくる山の中のお寺でしたね。
さて、今回は、室生火山群より流れてくる川を遡ります。あと少しでお寺のある谷に出ます。
そして、弥勒堂、金堂、本堂、五重の塔と見学させてもらったんでした。
そういうところを回った後、四年前にはなかった宝物館も見学しました。
そこで、改めて仏像などを鑑賞用の光の中でじっくりガラスケース越しに見させてもらいました。
なかなかステキだなと感心しました。小規模だけど、室生寺らしいささやかさでした。
気になったことがありました。室生寺の歴史が書いてあるパネルを見ていて、室生寺にも苦難の歴史があったのだと知ることができました。
お寺そのものは、興福寺の賢きょう(けんきょう)というお坊さんが、延暦年間(782~806)修行道場として開いたということでした。
役行者(役小角 えんのおづぬ)さんが開いたという話もあるようですが、それだと680年頃になるそうです。古くから山深いところでここに籠って修行する場にはなっていたんでしょう。
それから、興福寺傘下の法相宗(ほっそうしゅう)の寺院となった。お寺は、古代は荘園をどれだけ持てるかが大事な中古・中世の時代、いつもお寺の領地をどれだけもらえるのか、お寺の経営を担当するお坊さんたちは、興福寺との交渉でやきもきし、ずっと争いの種となっていたようです。
それはもう、興福寺といえば大寺院ですけれど、源平の戦いなどで被害を受け、新たにお寺を建設せねばならず、時代の流れもあり、どのようにして武士の世のなかでお寺を成り立たせていくのか、そのためには武士たちと同じように、どれだけ自分たちの領地を得るかで、政治的にも軍事的にも争いをしたのでしょう。
室生寺はいかに争ってみても、山の奥ではあるし、人々の支持を集めにくく、長谷寺みたいなリピーターも持たず、細々と活動していた(のかなあ)。
それが、江戸時代まで争い続け、徳川綱吉さんの代になってやっと決着し、法相宗を出て、真言宗に宗旨替えをしたというのです。
綱吉さん(生類憐みの令で有名な5代目)のお母さんの桂昌院さんのサポートを得て、お寺を維持するための寺領をもらったり、保護してもらった。かくして真言宗になったので、高野山の代わりに女性を受け入れる山の中のお寺ということで「女人高野」というセールスポイントもできて、江戸時代を乗り切ったということです。
てっきり平安時代から高野山の代わりの、女性がお参りできるお寺だと思っていたけれど、そうではなかったのだ、というのを今回初めて知りました。
千三百年の歴史の中で、山岳信仰でもない、真言宗のお寺としての歴史は浅い、細々とした山の中のお寺さんである、というのを知りました。
そして今は、静かに山里に突然浮かび上がる立派なお寺として存在していました。