途中で何年かいなかったときはありますが、だいたい30歳まで、大阪の大正区というところにいました。
生まれて1年ほどは、カゴシマの指宿にいたというし、純粋のコテコテの大阪人ではありませんでした。大阪の子どもの世界を一応はくぐりぬけてきたけれど、ずっと落ちこぼれの子どもでしたので、どんな遊びにしてもズッコケまくっていました。
私に自慢できること、何かあったんだろうか?
たぶん、ありませんでした。そんなコンプレックスといじけ虫の私ですけど、どうにかオッサンになりました。体は、今はもう、頭のてっぺんから足の先までダメなとこだらけで、全身コンプレックスですけど、小さい頃は体に関してはそんなに心配してなかったかな。いや、徒競走、運動、たいていできない子でしたよ。でも、コンプレックスという言葉も知らなかったし、割と平気だったかな。
それでも、みんながみんな何でもできるわけではないから、お互いにかばい合って、いいところを出し合いながら、なんとかやって来れたんでしょうか。
小学校の高学年の頃は、アイデアはいろいろあったから、言い出しっぺみたいなのはしたでしょうか。でも、根気がないから、チームとして挫折したこともあったような気がします。
文化祭みたいな行事で、万博でインパクトを受けたクボタパビリオンみたいな、つり屋根の円形の建物を木とハリガネで作ろうと企画したのはいいけど、計画性もないし、チームを引っ張る指導性もないし、見るも無残なクボタパビリオンを作ったこともありました。
いつも、イメージはあるんだけど、それを形にできないことが多かったですね。
そんな小学生の頃、大正区のど真ん中(たぶんそこが運河とか材木置き場のズブズブの湿地だったんでしょう)に盛り土して、大阪市で一番高い山の昭和山ができました。万博の前に地下鉄を作るということで、大阪市内の地面から掘り出された土を盛り上げて作った山でした。
ダンプが土を盛り上げていく横を、ノコノコ歩いて見に行った記憶もあるから、たぶん、土だけだったと思います。
今だったら、大阪市内の廃棄物を捨てられそうで、それが怖いんだけど、当時は地下鉄建設で出てくる土だったと思われます。
確か、地下鉄建設をしている時、天神橋筋?丁目かで、地下鉄工事でガス管を壊してしまって大きな事故になったことがありました。それくらいに1970年を前にして大阪は焦ってガリガリ工事をしていました。その残土が昭和山でした。万博の巨大な記念碑みたいなものでしょうか。
私は何も知らないで、自分の住んでるすぐ近くで、ダンプがたくさん来たり、ついこの間まで運河だったところがどんどん埋め立てられて、十いくつメートル下の水面を眺めては、運河に特に思い入れはなかったけれど、いろんなもの、歴史とか、人の生活とか、ついこの間まで材木が浮かんでたのがどんどんなくなっていくのを見て、そうした人の暮らしが埋められていくような気がしました。
それは仕方がないことなんだろうけど、何とも言えない気持ちで遠い水面を見ていたかもしれません。友だちの家も引っ越しさせられたり、転校して行ったり、そういう人を通して町を見させられていたということなのかな。
だから、私にはもう当時の運河はあまり見えないんです。どこにどんなふうに運河があったのか、知るすべがないんです。
それで、このお正月、三日の今朝まで母とあれこれブラブラしていたら、
「ここに運河があってなあ。ここは全部河みたいやった」とか、
「最初にお父さんと暮らしたのは、このあたりやった」とか、
母のとぎれとぎれの思い出話なんかを聞かされてたら、オカンにはしっかり昔の運河が見えてるんやなあ、と感心したものでした。
それにしても、父と母は、この大正区のあちらこちらを転々としたようです。もっとずっと南の方のアパートにいたこともあるし、一番最初はどっちなんだろう。
もう一度、ちゃんと母に聞いておかないと、バラバラに聞かされてると、つながっていかないですね。
そう、このお正月、実家の食器棚をあれこれ見ていたら、うちの親族一同の戸籍のコピーがあって、もう少ししっかり読み込まないといけないけれど、ひいおじいさんはクマゴロウという、びっくりするような名前だったのだと知ることができたり、そんなこんなの正月でした。
家に帰ってきました。ネットにも復帰できました。でも、あまり大したことは書けていません。ボチボチ書いていきます。つまらない思い出話になるのはイヤなんだけどな。