父の妹にあたる叔母がなくなったということでした。今日の夕方、家に電話をして、妻から教わりました。母は私に特に何も連絡してきませんでした。妻は、母からカゴシマに電報送っておいてと依頼されて、今日一日アタフタとしたそうです。
母が何もかも取り仕切ればいいのに、母はそういう雑用は子どもたちがするものと思っていて、私がいたら私、妻がいたら妻に、「お願いね」と依頼するようです。
お金は後から出すから、事務的なことは頼むわね、とかなんとか、適当なことを言いつつ、私たちが雑用をすることになっています。
弟も、母の雑用をあれこれと依頼されますが、今回はうちに仕事が回って来たようでした。
叔母に最後に会ったのは、2019年の1月のカゴシマでしたね。もう寝たきりになっていて、ものも言えませんでした。口が達者で、たくさんの部下がいた叔母だったのに、晩年は病院のベッドの上で、好きなこともできず、動き回れないし、ただ目だけがギラギラしていた。
髪もとても短くて、晩年の父みたいな顔になっていました。そりゃ、兄妹なんだから、似るのは当たり前なんだけど、ものも言えない父が今もここにいるような気さえしたものでした。父も叔母も、目つきの怖い時があったけれど、父は人間性でそれを丸め込み、叔母もそうだったけれど、命の瀬戸際では、研ぎ澄まされる部分があったんだろうな。
私も母も一緒にお見舞いに行って、私たちですよとアピールはしましたし、叔母も私たちを見ている雰囲気はあったんです。ただ口がきけなくて(もうことばを失っていたのかどうか)、目で私たちを追いかけていたのだったかな。それも少し不安定ではありました。
ものも言えないし、体も動かせないし、喜怒哀楽もないし、ただ目でボンヤリ何かを見ているだけでした。
でも、私たちは何も言えなかった。ただ、お見舞いに来ましたよ。お久しぶりです。と声をかけただけでした。
耳は、たぶん聞こえていたのではないか、という気がしてなりませんでした。意志表示も、表情も何もないのだけれど、目と耳は動いていて、狭いところから外にいる私たちを見ていたのではないかなと思いました。
そういうすさまじさはあったから、叔母にただだだ自分たちは叔母さんを忘れていないし、一緒に何かしたいんだけど、叔母さんがもうずっと入院しているし、叔母さんのお世話を取り仕切る従姉がいるので、彼女のいないところにノコノコ現れた私たちは、スゴスゴと帰ったのでした。
叔母は、10年以上前から認知機能が衰えていました。現役の時は、それはもうキレキレの人だったから、そうなってしまって、もう私たちとの接点はなくなっていました。たぶん、ダンナさんも亡くなって、子どももいなくて、叔母は従姉にすべてをゆだねるしかなくなっていました。
従姉は、大阪で暮らしていたけれど、両親を亡くし、叔母さんだけがただ一人の親戚として面倒を見てくれて、その流れでそのまま今度は叔母さんの面倒を従姉が見ることになったんでした。
人って、いろんなめぐりあわせがあります。たまたま叔母には子どもがなかった。仕事はバリバリしていた。従姉はたまたま両親を早く亡くした。そして、母親の妹である叔母を慕い、叔母と同じ世界に進み、そこで仕事をすることになった。
叔母がカゴシマに帰るというと、従姉も大阪からカゴシマに向かい、家族全員でカゴシマに転居もしてしまった。
叔母のダンナさんは、岡山県の真鍋島というところの出身で、二人が結婚する時には、うちの父が大活躍して、父の人生で唯一の瀬戸内の島回りもしたようでした。二人の愛のキューピッドがうちの父だったわけですが、まあ、お兄ちゃんなら、頼まれれば一肌脱いだりしたもんですよね。
そして、何十年の大阪生活があって、やがては退職して、のんびり老後を過ごそうとカゴシマへやってきた。けれども、今までカゴシマで人のつながりなんて作ってなかったお二人は、そんなに楽しい老後が送れたのか、私にはわかりません。
そして、気丈な叔母がいつしか認知症の沼に陥ってしまったのですから。あんなにしっかりしていた叔母でさえ、避けられなかった。
いや、叔母はしっかりしすぎていたのかもしれません。いや、どうなんだろう。適当な推論はできないな。
父たちの兄弟の中で、ただ一人だけ、95になる伯母がまだいるけど、しばらく伯母さんにも会っていません。
会える時に会う。言いたい時に言う。すべて思った時に、やれるだけのことをしておきたい。今はそう思います。
叔母さんのお葬式も、しんみりと親族だけでするそうで、大阪の母は、行かないということでした。そりゃ、母がカゴシマにわざわざ出向くことはないでしょうね。悲しいけど、そうなんだな。