1981年の12月、岩波ホールで「山猫」(1963)の完全版が上映されるということでした。時間はなんと3時間6分。少ししり込みするような長さでした。
初公開から20年近くの歳月が過ぎていますが、それまではアメリカを意識したのか、それとも公開を取り仕切る興行元が希望したのか、短縮版しかなかったそうです。どこをどのように切ったのか、私にはわかりません。
田舎の学生だった私たちは、敢然と東京に行くことにしました。サークルの女子の希望を入れて、男3人・女子1人で東京に乗り込んだのです。
東京にはめったに行くことはなくて、国会図書館で調べものとか、ごくたまに贅沢するために出かけるとか、よっぽどのことがない限りそちらに行くことはありませんでした。
東京まで時間にすると3時間くらいだったのか。それくらいを辛抱したら行けるところなのに、貧乏学生には時間も旅費も負担が大きく、「さあ、行くぞ」と奮発しないといけないところでした。
東京は物理的よりも心理的に遠い都ではありました。
だから、4人が立ち上がった時、よっぽどの覚悟をもって臨んだことでしょう。私たちの卒論も提出してたし、女子の強い希望もあったし、とりあえず行ってみようという若者のノリはあったような気がします。悲壮な覚悟みたいなのはなかった?
早起きしなくてはいけない。帰りは遅くなるだろう。お金もそれなりに使うだろう。お昼はどこで食べるんだ。今なら、ネットで検索とかするんだろうけど、当時の私たちにはそんな武器はなく、やみくもに行き、行き当たりパタリで食べたんだろうか。
コンビニという商売の形態はなく、気軽に物を買うこともままならない状態でした。だから、田舎者4人の持っている知恵を結集して乗り込んだと思われます。
どこをどうして行ったのか、まるで記憶はありませんが、とにかく神田神保町にたどりつき、岩波ホールに着いた。
けれども、岩波ホールは簡単にホイホイとお客を受け入れるところではありません。建物の中に入るには、階段の下でずっと並んで、毎回人数は限定されているので、私たちが見る回の二百人のメンバーにならねばならなかった。
そうでした。昔の映画って、ものすごい時にはものすごく並んだり、立ち見で見させられたり、ものすごくガラガラだったり、いろいろな上映がありました。80年代は、シネコンというスタイルもなくて、オーソドックスな上映形態で、とにかく映画館に行き、そこの時間に合わせて入るか、途中からでも入って座席を確保しておくか、あれこれ入口で悩んだりしたものでした。
でも、天下の岩波ホールは違います。選ばれた二百人のために、毎回リセットして総入れ替えをして、最初から最後までしっかり映画を見せるという形です。それが割と新鮮だったり、それが敷居の高さを感じさせたり、とにかく岩波ホールで見るのだという気持ちの高ぶりが最初からあるのでした。
どれくらい待たされたんでしょう。とにかく私たちは映画を見ることができた。
私のメモによりますと、13:30~16:50までが私たちに与えられた時間であり、私たちは必死になって見たと思われます。
そうか、その三時間余り、一生懸命見たのか。感想はメモしなかったんですね。
何だかゴージャスで、A・ドロンさんはかっこいいし、B・ランカスターはハリウッド映画だとただの俳優さんなのに、この映画の中では次第にイタリア貴族に見えてくるじゃないですか! 当時は、何となく違和感があったと思われますが、次第に映画の世界に取り込まれていったと思われます。
そして、主人公サリーナ公爵(ランカスター)と甥のお嫁さんになるアンジェリカ(クラウディア・カルディナーレ)さんが一緒にワルツを踊って、華麗な舞踏会もあるもんだとかなんとか、感心したんだろうか。
いつ終わるとなく続く映画に少しウンザリしてたかもしれない。
とにかく最後の方はずっと舞踏会のあれこれなのです。
やがて、舞踏会は終わり、公爵はひとりで歩いて帰宅する、というところでポツリと映画は終わるのですが、どうして一人で帰るのか。なぜ歩いて帰るのか。どうして舞踏会の途中で主人公はひとりでシンミリしてたりしたのか……。
今ならなんとなくわかる気がするんですが、当時はわかったんだろうか。たぶん、わかってなかった。なんとなくその気になってきたけれど、これは一体なんなんだ、とかいう程度だったはずです。
公爵は、自分たちが時代から取り残されていくのをかみしめていたのだ、とかなんとか、受け売りの解釈をしていたのかもしれません。時代が進むと、時々そういう取り残される人がいる、というのは少しずつ学習していた気がします。
岩波ホールを出たら、もう真っ暗だったでしょう。師走の東京、今の私たちなら、新宿で一杯飲んでから帰るかとか、寒いからあったかいお酒飲みたいなとか、アルコールを真っ先に考えるところですが、真面目な田舎者学生だった私たちはすぐに帰ることにしました。
でも、どこかで寄り道をして、私の希望でトランシーバーを買わなかったかなあ。たぶん、この時だったと思います。それで、電車の乗り継ぎをする駅で、買ったばかりのトランシーバーを使って遊んだような記憶があります。
そして、駅員さんに見つかって、「駅構内で変な電波を出さないようにしてください」と叱られてションボリと帰った(ように思います)。
まあ、駅の中で二手に分かれて「もしもし、聞こえますか」と遊べたから、すでに満足していたのかもしれない。
昔から私はお調子者で、つまらぬオモチャが好きでした。でも、この時が初めてのトランシーバー購入で、そういう遊びをする仲間を初めて見つけられたから、それがうれしかったのではないか、と思います。
この時のメンバーとは、今も細々とつながっていて、「山猫」以上に貴重なつながりだと思うのです。めったに会えないけれど……。