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モヤモヤ古代史に挑戦! でも惨敗。

2017年03月06日 18時11分40秒 | 大和路を歩く
 不確かなところを、あぶなっかしく歩くように、知ってることと調べたことを重ねて、今日の記事を書こうと思います。

 話題としては、日本の古代史です。例によって、いい加減な知識で書きますので、とりあえず私の不確かな知識を確認してみます。

 日本の古代史は、一応645年の大化の改新で落ち着いて、そこから豪族の連合体から律令国家へと頑張って、710年に平城京に移転して、私の好きな奈良が生まれていくんです。というわけで、7世紀後半からがわりとしっかりした時代で、白鳳文化みたいなのも生まれたのではないかと思っていました。

 平城京になってからも、藤原氏が安定せず、豪族の権力争いやらはやり病いやら、いろんな内憂外患があったと思われますが、とりあえず教科書的には落ち着いた時代としてとらえられているような気がします。……私の個人的な感想かもしれません。

 実際の奈良時代のことは、何も知らないのと同じなので、ただ大仏と天平文化みたいに思っています。それで、不確かなのは、その前です。

 645年、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)がタッグを組んで、悪役の蘇我入鹿(そがのいるか)を倒した。そこから天皇中心の国家が生まれた。

 みたいにとらえてますけど、だったらどうしてすぐ皇子が天皇にならなかったんだよ。そこがおかしいよ。と、高校生の時に思った記憶があります。調べてみると、661年に天皇になったそうで、それまでの十数年間は、いとこの孝徳・斉明の2人の天皇を支えたそうです。不思議です。どうしてすぐ天皇にならなかったのだろう。

 この頃は、天皇になると名誉職で、皇太子の方が自由に権力をふるえたのかもしれません。それとも、他に理由があったのかなあ。何事につけ不確かです。



 天皇家って、いくつもピンチがありました。

 さかのぼってみると、明治の終わり、江戸時代も?、信長さんが権力を握っていたとき、足利義満さんが日本国王になろうとしたとき、南北朝のころ、藤原氏が摂関政治をしていたころ、桓武天皇が即位した頃、それはすなわち奈良時代の終わりに天武系の天皇が称徳天皇と怪僧・道鏡のゴチャゴチャで途絶えたときと同じ、天智系と天武系の争いの壬申の乱(672)など。

 あぶない時代がありました。大化の改新以前では、武烈天皇が亡くなって、仁徳天皇の系統の方がいなくなって、越前から連れてこられた継体天皇という方、この方の登場もよくわかりません。しばらく都に入れず、あちらこちらふりまわされて、即位したのが507年だそうで、お墓も大阪の北部にあるそうで、どうなんだろうと思います。でも、全然どうなっているのか、想像もつきません。



 あっちこっち行くので、まとめてみたいと思います。

507年に、越前の国から天皇候補者が連れてこられ、なかなか都に入れなかった。それなりに反発する人がいたり、豪族たちを説得したり、内部体制を固めなければならなかったんでしょう。

 このスカウトされた人が、継体天皇(お名前がいいですね。天皇を中心とする体制をつなげるための天皇ということですもんね)となり、このお方の子孫が代々栄えていくことになります。

 継体天皇のお子さん3人も天皇になり、お孫さんの4人も天皇。ひ孫の聖徳太子さんも長生きすれば天皇になれたのかもしれないけれど、なれませんでした。聖徳太子の息子さんの山背大兄王(やましろのおおえのみこ)さんも、うまく世渡りすれば天皇になれたかもしれないけど、絶大な権力を握る蘇我入鹿(そがのいるか)に殺されてしまいます。

 せっかくつないだ天皇家なのに、消えてしまうのかというところで、玄孫(やしゃご)の舒明天皇(じょめいてんのう)で、どうにかつながっていくのでした。

 奈良時代はその流れで、天武系の方々が次々と天皇となられますが、奈良時代の終わりに途絶えてしまい、平安時代の始まりは、母方に朝鮮系の方が入った天智系の桓武天皇が即位されて、新しい時代が到来するという形になっています。

 507年に継体さんが上京して、そこから8代目が桓武天皇さまです。三百年が経過しているのですが、8代で三百年経過するって、少し無理があるような気がします。一人が世の中を保つとしてせいぜい三十年。それの8倍だからせいぜい二百四十年ではないのかな。何だか計算が合わないけれど、そういうことになっているみたいです。「日本書紀」の記述に文句を言ってもしょうがないですね。「日本書紀」に沿って歴史の記述をしても、あやしいところがあるんでしょうね。計算が合わなかったり……。

 26代天皇・継体(507~31)、50代天皇・桓武(781~806)計算が微妙だけど、こういう歴史があったのかどうか、でっちあげなのか、それとも何なんだろう。とにかく飛鳥・奈良・平安と時代は続いてきたわけです。



 というわけで、3月2日の朝日新聞の記事で、明日香村の小山田古墳は飛鳥時代の最大級の方墳が見つかって、埋葬者は、天智・天武の父である舒明天皇か、それとも蘇我蝦夷(そがのえみし)なのか? それが話題になっているそうです。

 少しだけ古代史が私の中では流行(ブーム)になっているので、そういうのが見つかったのか、すごいなあと思ったのです。

 古墳といえば、そりゃもう前方後円墳だろうと思ってましたが、3世紀中頃から6世紀末までだそうです。そこから四角形のお墓である方墳が作られるようになり、7世紀中頃からは天皇のお墓は八角形墳に変わっていったそうです。

 こりゃ、知らなかった。

 「日本書紀」では、舒明天皇は642年の12月に一度埋葬され、それから九ヶ月後に別の所へ移されたそうです。どういう事情でそうなったのか、全くわからないけれど、モヤモヤっとした古代のあれこれがモヤモヤと浮かび上がってきます。

 断片的に私たちは知識を与えられるけれど、本当のところは、まるでわからないのです。

 というわけで、果敢にチャレンジしたつもりだけど、何が書きたかったのか、モヤモヤしてますね。


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