今から80年前のある一面です。高校時代からずっと尊敬している色川大吉先生の「ある昭和史」という本からの抜き書きです。どうしても切り取らねばと思い、十年前にメモしておいたものでした。
◇ 一九三六・昭和十一年
愚かなようでいて大衆は、確実に迫りつつある暗い翳(かげ)を予感していた。それゆえにこそ蘆溝橋(ろこうきょう)事件発生直前に行われた衆議院の総選挙では、戦争政策をすすめる政友会を惨敗させ、無産政党を大量に当選させていた(東京では全員当選)。巷(ちまた) には前近代的な「家」からの解放をうたった甘い小市民のマイホームソングが大流行していた。
あなたと呼べば あなたと答える 山のこだまの うれしさよ
あなーた なーんだい 空は青空 二人は若い
(「二人は若い」サトウ・ハチロー作詞)
「狭いながらも楽しいわが家」という歌もあり、戦争の前夜にしばしば見られるマイホーム主義への耽溺(たんでき)感情をよくあらわしていた。
月が鏡であったなら 恋しあなたのおもかげを 夜ごとうつして見ようもの
こんな気持ちでいるわたし、ネエ(「忘れちゃいやよ」最上 洋作詞)
そのあとを女学校の先生出の歌手渡辺はま子はレコード会社の命令で、「ネー忘れーちゃーいやーンよ、忘れなーいでネェー」とセクシームードをこめて泣き泣き歌わされたという。この「いやーンよ」の歌い方が「あたかも婦女の嬌態(きょうたい)を眼前に見る如き官能的歌唱」だとしてレコードの発売を禁止されたが、流行は衰えず、さらに翌一九三七年の「ああそれなのに」の大ヒットにつづいていった。
いっぽう、映画の面では伊丹万作、山中貞雄、内田吐夢(とむ)、溝口健二らの社会批判のきいた日本映画の秀作が、つぎつぎと大衆の喝采(かっさい)を博していたのである。
しかし、このころの大衆には積極的な何かの力が欠けていた。五・一五事件以来(その犯人たちの減刑嘆願書を三十五万七千人分も積み上げられた陸海軍の法廷は、かれらを英雄扱いにして軽い刑にとどめ、しかも四年後には特赦(とくしゃ)で全員を釈放した)、軍部ファッショの支配をねらう謀略はいっそう増長し、なかば公然と進行していた。
これをどの政治グループが真剣にくい止めようとしたか。もしそれをだれかが徹底的に行おうとするのなら、国民の自由を金縛りにしている治安維持法などを撤廃して、自由民権運動や大正デモクラシー運動の故智にならい、直接、大衆に立ち上がりをよびかけなければならなかったはずだ。
〈色川大吉『ある昭和史』(中公文庫 1975刊)より〉
私は、どうして日本が戦争に突入していったのか、それがわからなくて、いつも不安になります。
でも、歴史においては、ある程度必然的に戦争に突入していったことが、事実を通してわかる気がします。当時のえらい人たちも、ふつうの国民のみなさんも、みんなが結局それを支持していたのです。
よくよく考えれば、そんなことあっていいわけはないのに、それなのに人々は戦争を支えていった。
今は、戦争賛成という人はいないけれど、いや、いるかもしれないけれど、とにかくみんなが戦争に参加することをちゃんと嫌がっている。
アメリカの若者だって、たぶん戦争なんかやりたくないのです。なのに、アメリカという看板がある以上戦争も時にはやらなくてはならない。仕方なく戦争に荷担する。だから、当然そこでムチャクチャなことをする人もいつも以上に出て来やすい。沖縄が不安なのは、米軍という存在はいつでも暴発できる存在であるということでした。
私たちは、戦争はしないだろうと思っている。でも、それは危ういバランスの上で保たれている。いつでも北朝鮮を攻め、中国と21世紀版日清戦争をやらかしていい雰囲気にもなったりする。
みんながバラバラであれば、ある勢力が台頭し、どうしようもなくなる。それを阻止するために、私たちはお互いに連帯して、突出しようとする力と向き合うことはすごく大切だと思います。
戦争をしない。世界が何と言おうと、戦争に関してはある程度孤立していきたいと思います。
そして、平和交渉において、一切手は出さないけれど、あらゆるところで口を出し、あらゆるところで門戸を広げる存在になりたい。これは国民自身の議論が必要です。
舛添さんはやはり辞めさせられた。みんなが当然だという雰囲気ではあるけれど、このよってたかって辞めろ的な雰囲気はよくなかったですね。マスコミなんてそんなものなのだと思われますが、視聴率を取れるからと、それ一辺倒で来たみたいです。
それよりも、舛添さんだけじゃなくて、もっといろいろな人のとんでもない事実を明かして欲しいなあ。わかったことをほじくり返すのは得意だけど、どこにもないものを掘り起こすのは大変なのかなあ。
とにかく、舛添さんだけが悪いみたいに言われているけれど、舛添さんは私たちの一端だという自覚を持ちたい。私たちは、トップに立てばそんなことをしでかすのだし、そんなトップを選んでしまうオッチョコチョイなところがあるのだと思いたい。
◇ 一九三六・昭和十一年
愚かなようでいて大衆は、確実に迫りつつある暗い翳(かげ)を予感していた。それゆえにこそ蘆溝橋(ろこうきょう)事件発生直前に行われた衆議院の総選挙では、戦争政策をすすめる政友会を惨敗させ、無産政党を大量に当選させていた(東京では全員当選)。巷(ちまた) には前近代的な「家」からの解放をうたった甘い小市民のマイホームソングが大流行していた。
あなたと呼べば あなたと答える 山のこだまの うれしさよ
あなーた なーんだい 空は青空 二人は若い
(「二人は若い」サトウ・ハチロー作詞)
「狭いながらも楽しいわが家」という歌もあり、戦争の前夜にしばしば見られるマイホーム主義への耽溺(たんでき)感情をよくあらわしていた。
月が鏡であったなら 恋しあなたのおもかげを 夜ごとうつして見ようもの
こんな気持ちでいるわたし、ネエ(「忘れちゃいやよ」最上 洋作詞)
そのあとを女学校の先生出の歌手渡辺はま子はレコード会社の命令で、「ネー忘れーちゃーいやーンよ、忘れなーいでネェー」とセクシームードをこめて泣き泣き歌わされたという。この「いやーンよ」の歌い方が「あたかも婦女の嬌態(きょうたい)を眼前に見る如き官能的歌唱」だとしてレコードの発売を禁止されたが、流行は衰えず、さらに翌一九三七年の「ああそれなのに」の大ヒットにつづいていった。
いっぽう、映画の面では伊丹万作、山中貞雄、内田吐夢(とむ)、溝口健二らの社会批判のきいた日本映画の秀作が、つぎつぎと大衆の喝采(かっさい)を博していたのである。
しかし、このころの大衆には積極的な何かの力が欠けていた。五・一五事件以来(その犯人たちの減刑嘆願書を三十五万七千人分も積み上げられた陸海軍の法廷は、かれらを英雄扱いにして軽い刑にとどめ、しかも四年後には特赦(とくしゃ)で全員を釈放した)、軍部ファッショの支配をねらう謀略はいっそう増長し、なかば公然と進行していた。
これをどの政治グループが真剣にくい止めようとしたか。もしそれをだれかが徹底的に行おうとするのなら、国民の自由を金縛りにしている治安維持法などを撤廃して、自由民権運動や大正デモクラシー運動の故智にならい、直接、大衆に立ち上がりをよびかけなければならなかったはずだ。
〈色川大吉『ある昭和史』(中公文庫 1975刊)より〉
私は、どうして日本が戦争に突入していったのか、それがわからなくて、いつも不安になります。
でも、歴史においては、ある程度必然的に戦争に突入していったことが、事実を通してわかる気がします。当時のえらい人たちも、ふつうの国民のみなさんも、みんなが結局それを支持していたのです。
よくよく考えれば、そんなことあっていいわけはないのに、それなのに人々は戦争を支えていった。
今は、戦争賛成という人はいないけれど、いや、いるかもしれないけれど、とにかくみんなが戦争に参加することをちゃんと嫌がっている。
アメリカの若者だって、たぶん戦争なんかやりたくないのです。なのに、アメリカという看板がある以上戦争も時にはやらなくてはならない。仕方なく戦争に荷担する。だから、当然そこでムチャクチャなことをする人もいつも以上に出て来やすい。沖縄が不安なのは、米軍という存在はいつでも暴発できる存在であるということでした。
私たちは、戦争はしないだろうと思っている。でも、それは危ういバランスの上で保たれている。いつでも北朝鮮を攻め、中国と21世紀版日清戦争をやらかしていい雰囲気にもなったりする。
みんながバラバラであれば、ある勢力が台頭し、どうしようもなくなる。それを阻止するために、私たちはお互いに連帯して、突出しようとする力と向き合うことはすごく大切だと思います。
戦争をしない。世界が何と言おうと、戦争に関してはある程度孤立していきたいと思います。
そして、平和交渉において、一切手は出さないけれど、あらゆるところで口を出し、あらゆるところで門戸を広げる存在になりたい。これは国民自身の議論が必要です。
舛添さんはやはり辞めさせられた。みんなが当然だという雰囲気ではあるけれど、このよってたかって辞めろ的な雰囲気はよくなかったですね。マスコミなんてそんなものなのだと思われますが、視聴率を取れるからと、それ一辺倒で来たみたいです。
それよりも、舛添さんだけじゃなくて、もっといろいろな人のとんでもない事実を明かして欲しいなあ。わかったことをほじくり返すのは得意だけど、どこにもないものを掘り起こすのは大変なのかなあ。
とにかく、舛添さんだけが悪いみたいに言われているけれど、舛添さんは私たちの一端だという自覚を持ちたい。私たちは、トップに立てばそんなことをしでかすのだし、そんなトップを選んでしまうオッチョコチョイなところがあるのだと思いたい。