頭の悪い私でも、人間というのは矛盾した存在である、というのは知っています。そして、折に触れて、ああ、何だかギッコンパッタンのシーソーのような、あちらを立てればこちらが立たずみたいな、切り刻まれるような瞬間に立たされることがある(あった)ような気がします。
そういう時は、折り合いをつけて、バランスを考えて、みんながうまくいくように、なるべく努力する、説得する、話をする。そして、あの人が言うなら仕方ないかと納得してもらい、なるべくみんなが不満がないように、やっていかなくてはならない。
これは、私たちの生活の一コマでしたし、自分の中でも矛盾する感情がぶつかる時だってあるでしょう。そういう時、人は自分で納得して選択していく。私はグータラですから、どんなに感情が先に立っていても、なるべく面倒がないようにまとめたい。というのが、選択の基準になります。人それぞれ基準が違うでしょう。
個人においては、折り合いをつけていくのですが、政治に関していえば、どちらかというと、歴史は「優性思想」を先にしていた気がします。なぜそうなるのかというと、その方が生産性・効率性・経済性が上がるからです。
優れたものが、人に先んじていく。たくさんの富を築いていく。それを分配すれば、世の中は豊かなる。そういう考え方があったかもしれません。
けれども、よく考えてみれば、それは切り捨ての思想であり、選別・差別・区別の思想でした。
切り捨てられるものは、何か劣っていたり、うまく動けなかったり、ゆっくりだったり、引っ込み思案であったり、体が不自由であったり、一般的な人とは少し違う人たちでした。
あれこれ後に追いやられてしまうのなら、本当なら率先してそういう人たちに目を向けるのが政治だとは思うけれど、20世紀の政治には、まだそこまでできていなくて、21世紀になっても、相変わらず、切り捨てと選別、後まわしの政治があるような気がする。
日本だけではありません。インドのモディさんのイスラム教徒切り捨て、アフガニスタンのタリバンの女性蔑視、イスラエルのパレスチナ人虐待、ミャンマーの少数派圧迫、反政府組織との抗争。いくらでも政府というものは、切り捨てる者(敵)を見つけて、それを攻撃・虐待することが政治の一つと理解して、無茶なことをしているようです。
日本も、アイヌの人たち、沖縄の基地問題、旧優生保護法、LGBTqの問題、もっといろいろあるような気がします。どれもあまり進んでいないような気がします。
けれども、少しずつ、政府が切り捨てようとするもの、自治体が自分たちの流儀で開発しようとするもの、いろんな切り捨てがあるでしょうけど、それを人々の力で政府・政治の暴走を止めて、それは元に戻しなさい。法律は廃止しなさい。自分たちの負の歴史を清算しなさい。と、促していかなくてはいけないようです。
そう、政治というものは、人間がやるんですから、間違いだらけなのだと思われます。それを後の人たちが検証し、誤りを正し、私たちの自然を取り戻していかなくてはならないと思います。
新聞に旧優生保護法の裁判のこと以外にも、鹿児島県のさつま川内市の原発の40年越えが認められたたいなことも書いてありました。まだ、動かしていたし、あと20年は運用するつもりのようです。地震は起こらないのか? 断層はないのか? 私は何も信用できないと思っています。どんなに安全と保証されても、人間の知らないことがたくさん地中にはあると思っています。何とかしたいけれど、知事さんが止めようとしても止まらないものでした。それくらい大きな力があるようです。それを踏みとどまらせるのは大変だと思っています。