安倍文殊院に初めて出かけ、そこから近いはずだと思って、適当に歩いて、聖林寺の十一面観音さまのお姿を拝みに行きました。
もちろん、私は不逞なヤカラですから、観音様に純粋な信仰心を持っているというよりも、ただ有名だから、ふたたびお姿を拝見しようと思ったのです。その魂胆がいやらしいです。どうして純粋な信仰心がないのかなあ。
前に見たときは、それなりに感動したのに、今回はそうでもなかったのでしょうか?
数年前、たぶん、ゴールデンウイークのころ、1人で大阪へ出かけました。三重から大阪に向かう途中で、桜井で降りました。その時の目的は談山神社(たんざんじんじゃ)でした。紅葉の名所だけれど、若葉の頃なら、それほどお客もいないだろうと思ったのでした。
果たしてお客は少なく、ゆったりと談山神社のあれこれを見て回り、こんな閉ざされた、まるで隠れ里のような、明日香からはものすごく近いところなのに、明日香からは見えなくなっている、不思議な位置にあるこのあたり一体の不思議さを感じ、そのころできたばかりという大宇陀へ抜けるトンネルも見つけて、いつかクルマで来てみたいなあと思ってから、もう何年が過ぎたことでしょう。
それから、全くのご無沙汰で、今回たまたま安倍文殊院に行きたくて、そのついでにと思って、聖林寺へ出かけたのでしたね。
安倍文殊院から聖林寺まで、あちらこちらで彼岸花の群落を見ることができて、あっちへ行ったり、こっちへ行ったりとフラフラ写真ばかり撮りながら、歩いて行きました。
談山神社の一の鳥居が集落の中にポツンと立っています。本殿ははるか向こうの山の陰にあるくせに、突然の鳥居で、どこかにあるんだろうなという気配は感じますが、全く何も見えないので、雲をつかむような頼りない感じです。そこをしばらく南に上がっていくと、杉玉を飾ったお店兼酒蔵のようなところがあります。
中をのぞいてみると、店の人はいないし、飾られた商品は、大吟醸とかで720mlが?千円で、少し高いなと思いました。そもそも私は日本酒にお金をつぎ込む人ではありませんでした。お酒をたしなむこともありません。冷やも熱燗もオンザロックも全く飲まないのです。
だから、のぞいただけで、もうすぐに諦めて、お寺に向かいます。
山の砦のような感じで存在する聖林寺の坂道を上がり、小さな門をくぐれば、やっとそこが境内で、意外と狭い感じがします。それが中に入ると、意外の展望が開けて、北側に広がる桜井の町、三輪大社、山辺の道、天理の町などが見えます。
展望はいいけれど、肝心の観音様は? というと、すぐにご対面できるわけではなくて、本堂に入ると、大きな石像の童子像があるようです。その大きさと意外の存在感にびっくりしてしまいます。
この不思議なお顔は、お地蔵さまのようです。それにしても立派なお姿で、ついつい手を合わせたくなります。少しだけユーモラスな感じです。
いくら観音様を探しても、こちらにはおられなくて、観音様は、少し階段を上がって、観音様専用の建物に行かなくてはならないのです。
お堂に上がっているわけですから、すでに裸足で、コンクリートの階段は少しひんやりします。そこで思うのです。もう少しフラットな建物で、気の感触を確かめながら、観音さんのおられるお堂にいけたらなあと、ないものねだりの気持ちがわき起こります。
コンクリートのお堂のそばには、あけびが開いていたり、お寺の建物の屋根が複雑にからまっていたり、独特の感じは出ているのだけれど、足もとは少し味気ないし、観音様の建物も、全貌は見えなくて、とにかく視界のきかない階段をのぼりつめたところに、コンクリート製でできている。
中に観音さまがおられるのはわかっているのだけれど、少しためらわれるような、なんだか囲われモノのところへ忍んでいく浮気男みたいな気分です。
観音様は、そんなふしだらな存在ではないのだけれど、何となくジメッとした空気感の中におられるようです。カラリとしていません。先ほどのお地蔵さんと比べても、少し暗い空気感です。
等身大の人間よりは二回りほど大きく、千年以上の時間もたたえながら、観音様はおられます。とても雰囲気のある感じなのです。でも、何だか、ここにあるのはおかしい気配がある。奈良国立博物館などには、お寺を追われた仏様がたくさんおられて、みんな避難してこられた感じで、それぞれ立派なんだけど、信仰の対象からは外れてしまって、私のファンたちから切り離されてしまったという仏様たちがたくさんです。
でも、この観音様は、それとも違う。今もお寺で、それなりに信仰はされているでしょう。それなのに、何だかここは私の本当の居場所ではないのだよ、と言っておられる感じです。どこか所在なげです。それは私の先入観かもしれませんけど、やはり新造建物とはいえ、薬師寺の仏様たちは、やっと居場所を見つけて、そこで輝くことに決めた感じがするのです。
聖林寺の観音様は? 何だか、居心地が悪そうです。コンクリートの建物がいけないということもあるし、山の斜面に急ごしらえの陰気さがあるのかもしれないし、本当のお寺を追われてしまった失意感がなんとなく感じられるし、観音様は、そんなことは言われないけれど、少しだけ、落ち着かない気分を持っておられるような、そんな気がしたわけです。
まあ、観音様の事情をいちいち考えるよりは、もっと素直に祈った方がいいですね。そうだ。次こそ奥さんを連れてこようと思っていたのに、またも奥さんを連れてこなかったから、その申し訳なさもあったのかもしれませんね。
次回こそ、さわやかな季節にでも、奥さんを連れて来ようと思います。
表紙のトリは、桜井の町中で、キレイな声で鳴いていて、少し待ってねと思いながら、撮らせてもらった写真です。何というトリなんでしたかねえ。
もちろん、私は不逞なヤカラですから、観音様に純粋な信仰心を持っているというよりも、ただ有名だから、ふたたびお姿を拝見しようと思ったのです。その魂胆がいやらしいです。どうして純粋な信仰心がないのかなあ。
前に見たときは、それなりに感動したのに、今回はそうでもなかったのでしょうか?
数年前、たぶん、ゴールデンウイークのころ、1人で大阪へ出かけました。三重から大阪に向かう途中で、桜井で降りました。その時の目的は談山神社(たんざんじんじゃ)でした。紅葉の名所だけれど、若葉の頃なら、それほどお客もいないだろうと思ったのでした。
果たしてお客は少なく、ゆったりと談山神社のあれこれを見て回り、こんな閉ざされた、まるで隠れ里のような、明日香からはものすごく近いところなのに、明日香からは見えなくなっている、不思議な位置にあるこのあたり一体の不思議さを感じ、そのころできたばかりという大宇陀へ抜けるトンネルも見つけて、いつかクルマで来てみたいなあと思ってから、もう何年が過ぎたことでしょう。
それから、全くのご無沙汰で、今回たまたま安倍文殊院に行きたくて、そのついでにと思って、聖林寺へ出かけたのでしたね。
安倍文殊院から聖林寺まで、あちらこちらで彼岸花の群落を見ることができて、あっちへ行ったり、こっちへ行ったりとフラフラ写真ばかり撮りながら、歩いて行きました。
談山神社の一の鳥居が集落の中にポツンと立っています。本殿ははるか向こうの山の陰にあるくせに、突然の鳥居で、どこかにあるんだろうなという気配は感じますが、全く何も見えないので、雲をつかむような頼りない感じです。そこをしばらく南に上がっていくと、杉玉を飾ったお店兼酒蔵のようなところがあります。
中をのぞいてみると、店の人はいないし、飾られた商品は、大吟醸とかで720mlが?千円で、少し高いなと思いました。そもそも私は日本酒にお金をつぎ込む人ではありませんでした。お酒をたしなむこともありません。冷やも熱燗もオンザロックも全く飲まないのです。
だから、のぞいただけで、もうすぐに諦めて、お寺に向かいます。
山の砦のような感じで存在する聖林寺の坂道を上がり、小さな門をくぐれば、やっとそこが境内で、意外と狭い感じがします。それが中に入ると、意外の展望が開けて、北側に広がる桜井の町、三輪大社、山辺の道、天理の町などが見えます。
展望はいいけれど、肝心の観音様は? というと、すぐにご対面できるわけではなくて、本堂に入ると、大きな石像の童子像があるようです。その大きさと意外の存在感にびっくりしてしまいます。
この不思議なお顔は、お地蔵さまのようです。それにしても立派なお姿で、ついつい手を合わせたくなります。少しだけユーモラスな感じです。
いくら観音様を探しても、こちらにはおられなくて、観音様は、少し階段を上がって、観音様専用の建物に行かなくてはならないのです。
お堂に上がっているわけですから、すでに裸足で、コンクリートの階段は少しひんやりします。そこで思うのです。もう少しフラットな建物で、気の感触を確かめながら、観音さんのおられるお堂にいけたらなあと、ないものねだりの気持ちがわき起こります。
コンクリートのお堂のそばには、あけびが開いていたり、お寺の建物の屋根が複雑にからまっていたり、独特の感じは出ているのだけれど、足もとは少し味気ないし、観音様の建物も、全貌は見えなくて、とにかく視界のきかない階段をのぼりつめたところに、コンクリート製でできている。
中に観音さまがおられるのはわかっているのだけれど、少しためらわれるような、なんだか囲われモノのところへ忍んでいく浮気男みたいな気分です。
観音様は、そんなふしだらな存在ではないのだけれど、何となくジメッとした空気感の中におられるようです。カラリとしていません。先ほどのお地蔵さんと比べても、少し暗い空気感です。
等身大の人間よりは二回りほど大きく、千年以上の時間もたたえながら、観音様はおられます。とても雰囲気のある感じなのです。でも、何だか、ここにあるのはおかしい気配がある。奈良国立博物館などには、お寺を追われた仏様がたくさんおられて、みんな避難してこられた感じで、それぞれ立派なんだけど、信仰の対象からは外れてしまって、私のファンたちから切り離されてしまったという仏様たちがたくさんです。
でも、この観音様は、それとも違う。今もお寺で、それなりに信仰はされているでしょう。それなのに、何だかここは私の本当の居場所ではないのだよ、と言っておられる感じです。どこか所在なげです。それは私の先入観かもしれませんけど、やはり新造建物とはいえ、薬師寺の仏様たちは、やっと居場所を見つけて、そこで輝くことに決めた感じがするのです。
聖林寺の観音様は? 何だか、居心地が悪そうです。コンクリートの建物がいけないということもあるし、山の斜面に急ごしらえの陰気さがあるのかもしれないし、本当のお寺を追われてしまった失意感がなんとなく感じられるし、観音様は、そんなことは言われないけれど、少しだけ、落ち着かない気分を持っておられるような、そんな気がしたわけです。
まあ、観音様の事情をいちいち考えるよりは、もっと素直に祈った方がいいですね。そうだ。次こそ奥さんを連れてこようと思っていたのに、またも奥さんを連れてこなかったから、その申し訳なさもあったのかもしれませんね。
次回こそ、さわやかな季節にでも、奥さんを連れて来ようと思います。
表紙のトリは、桜井の町中で、キレイな声で鳴いていて、少し待ってねと思いながら、撮らせてもらった写真です。何というトリなんでしたかねえ。