甘い生活 since2013

俳句や短歌などを書きます! 詩が書けたらいいんですけど……。

写真や絵などを貼り付けて、二次元の旅をしています。

秀次ロス そんな言葉があるんですね。

2016年07月22日 07時10分16秒 | 私たちの社会・世界
 大河ドラマなんて、ほとんど見なかった奥さんが、どういうわけか「真田丸」を熱心に見ています。堺雅人が上手だから? それとも、三谷光喜さんのシナリオだからでしょうか? いや、「新撰組」は見てなかったですね。どうして見ているんだろう?

 このようにブログに書くと、奥さんはこっそり教えてくれるので、それを期待しましょう。でも、そんなまどろっこしいことをしないで、「どうして大河ドラマ見ているの?」と質問すればいいんですね。

 今夜、酔っ払ったら、たずねてみようと思います。別に深い理由はないと思うんですが、どうして見ているのかなあ……。どうして直接訊かないのでしょう? タイミングを逃しすぎているからですか? もう半年以上過ぎてますもんね。どうしてかなあ?

 私は、ひねくれ者なので、もちろん世間が注目するものは見ません。みんなが話題にして、みんなが「……ロスだ!」と訴えたとしても、知らんぷりをして、そうなんだ、またいつかヒマがあれば、どんなのか見てみようとでも思うかもしれません。でも、今回の「秀次ロス」はたまたま見ていました。ああ、どうしてそんなふうに考えるの? もっと相手の胸に飛び込めばいいじゃん! とか思ったりしました。けれども、歴史上の人物も、この私も、カンタンなことなのに、それができていません。

 スポーツ中継と同じで、録画でドラマを見ても何だかおもしろくないような気がします。ドラマは、昔おふろ屋さんからお客さんがいなくなったように、それそのものが事件になりうる時があります。世の中の人が「関白秀次さんが死んでしまって、とてもショック」というのを、同時に感じるから、作り物のドラマなのに、それが現実のできごとのように、みんなで一斉にショックを受けることができるのです。

 そうした共感のチャンスをたいてい逃している私(正確には、この前の秀次さんは亡くなるまで見てしまいました。ということは、同時体験できたはずです)は、タイミングを逃しています。



 平和の日本だから、のんびりそんなことができますが、世界はそれどころではないのです。アジアだって、南シナ海だって、日本海だって、インド洋だって、落ち着いている所はないのです。

 なのに、日本に住む私たちは、世界の現実感が少ない気がします。ものすごく世界は身近に迫っているのに、私たちは世界への現実感に関して不感症を装っている。

 もっと現実感を持ちたいです。でも、ナマケモノでもある私は、そういうのが面倒で目をつぶっている。うちのご近所にもたくさんの外国の人たちがいて、大型バスで夜の勤務に出かけたり、外国の若者たちが公園でたむろしてスケボーに興じていたり、そんな姿を目撃します。

 彼らは、とても友好的で、生意気な日本人から何かを盗み取ってやろうとか、無宗教の日本人に死を! などという過激思想からは遠くにいてくれて、そんなにイヤな感じはありません。

 日本は平和で、多くの人々が、ドラマの中で豊臣秀次さんが自死するのにショックを受けておられた。私は、秀吉の指示による切腹だと記憶していたので、そこが小さな驚きでした。そして、キリスト様の姿を見て亡くなってしまう場面が描かれていて、「あれ、いつの間にキリスト教に接する機会があったんだろう」と、そこが知りたくなったものでした。

 ネットの世界では、三谷説は最近の研究を踏まえているとのことでした。秀吉の指示ではなく、追い込まれた秀次さんが、どんどん自分で破滅へと進んでしまい、最後は誰にも止められなかった、という形になっていました。大泉洋さんも、長澤まさみちゃんも、とうとう秀次さんの孤独を救ってあげることはできなかったのだ、という展開でした。真田びいきの視聴者の皆さんは、「ああ、どうして亡くなってしまうの」と、さらに悔しさが増したはずです。



 キリスト教は、当時の日本に入り込んでいたでしょう。それを上層部の人たちがどれくらい受け入れたのか、それが私にはわかりませんが、孤独な気持ちを持った人には、一つの福音にはなったでしょうね。仏教は過激化していて、戦う宗教だったのかもしれない。あまり人々を救うものではなくて、イスラム過激派のように、ゼロか百かで、他者を全く許さないものになっていた(のかもしれない)。

 宗教は、ここまで千年近くかけて、仏教と神道をミックスした、日本独特のものが室町くらいまでに形作られていた。鎌倉・室町で新しい仏教が生まれ、それらはわりと攻撃的な要素があって、中世の時代に先鋭化し、織田・豊臣の時代を迎えたのかもしれません。

 江戸時代の宗教は、その反省から、過激な浄土真宗を分離し、平和的な存在とさせた。そして、ここまで築いてきた神仏混交の世界を充実させ、神も仏もある世界にすることに成功した。どちらかというと、仏が主で神は従みたいにされていたので、その反動が明治でいっぺんに起きてしまい、明治になって仏教がズタズタにされた時代があって、その傷跡は今に続いています。

 私なんかは、そうした神仏混淆の痕跡と、それが引き裂かれた跡を訪ねて、いつもザンネンな気持ちになります。仕方のない反動だったのかもしれないけれど、神も仏も混在する世界が、日本に続いてくれていたなら、戦争もなかったのではないかと思ったりします。

 大河からとんでもない方向に来てしまいました。とにかく、神仏混淆の世界が私は好きなんだと思います。純粋じゃないし、わかりにくいけど、ごちゃまぜが当たり前にある世界って、いいなあと思います。原理主義は争いを生むような気がします。それでいくのなら、一切を捨てて、山にこもって、他者に迷惑をかけずに原理主義を追求して欲しい。他人に強制するのはいけないと思うのです。



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