雨が降っています。雨が降っていなかったら、満月を見るために外に散歩に出かけたでしょうけど、とても月見どころではありません。わりとしっかり降っているし、外は寒いということです。
でも、私はオッサンだから、オッサンは人が寒いというと暑い暑いと場違いな汗をかくし、みんなが心地いい感じと思っていると、末端が冷えてたり、何だか世の中からズレているんです。
今は、寒いと感じる人たちもいるはずですけど、私は暑くて扇風機をつけています。蚊だって、私のまわりにいるようですが、ものすごく素早いです。
啄木の「一握の砂」を取り出してみました。秋の短歌を五つ抜き出してみます。
愁(うれ)ひ来て
丘にのぼれば
名も知らぬ鳥啄(ついば)めり赤き茨(ばら)の実
トリに慰められたんですね。そんなに悲しいことばかりじゃないさ。そりゃ、まともに考えたら、もう頭が痛くなることばかりかもしれないけど、自分自身をふり返れば、気持ちを切り替えれたら、何とかなるような気もします。
トリたちはしっかり生きている。人間だけがクヨクヨしたり、悩んだりしている。そう、無心に物事にぶつかっていけば、事態は開けるかもしれないのです。
でも、啄木さんにトリに共感する気持ちがどれだけあったんだろう。まだ若いし、ただのトリとしか見えなかったんじゃないの? 短歌のネタとして取り上げただけ? 彼はどんなトリが好きだったんだろう。
秋の声(こえ)まづいち早く耳に入(い)る
かかる性(さが)持つ
かなしむべかり
これは季節? 虫? 人々? 特に何が秋の声というわけではなくて、啄木さんは世の中をどんどん先取り・先読み・早回りしようとした人でした。だから、特にこれというものじゃなくても、すぐに「秋の物音」を感じ取れたんでしょう。
私には無理だけど、啄木さんならできそうです。それを彼は、自分の特性ではあるけど、先に回り込んでしまうから、迷う楽しみがなくて、すぐに結論は出てしまうし、すべての物事が自らの想念の中で完結してしまったら、孫悟空さんじゃないけど、もがいてるだけで、心身ともに楽しくなくなるのでしょう。
そんなに先取りできたのに、売れる小説は書けなかったんですね。もう少し時間があれば、複雑なストーリーの物語が書けたのでしょうか。
もし、はないですね。啄木さんは、恋愛小説を書きたかったのかなあ。でも、彼の恋愛小説よりも、彼の武勇伝の方がおもしろい気がする。もっと破天荒な暴露ものを書けたら、すさまじかったでしょうか。いや、彼の短歌のイメージが崩れてしまうから、やはり、そんなの書いてはダメだ。
いいものが書けないなあと嘆いている方がいいんでしょう。
目になれし山にはあれど
秋来れば
神や住まむとかしこみて見る
山を取り上げていますが、そこに神を見ているということです。彼はそんなにアクティブな人ではないから、下から見上げるだけだったでしょう。
何も山頂に立たなくてもよい。見上げる山に私は「神」を感じられるでしょうか。素直に啄木さんの霊感を信じたいです。
さらさらと雨落ち来(きた)り
庭の面(も)の濡れゆくを見て
涙わすれぬ
「かなしい」と言ってみたり、「涙」を流して見せたり、それらは自らのカッコよさを浮かび上がらせる仕掛けでしょう。
泣いてなんかいない。心が泣いているだけです。心はずっと泣いてたはず。私みたいにボンヤリなんかしてないです。雨が地面に落ちるのを見ていて、気持ちが研ぎ澄まされるんだから、ものすごい外への情念はあると思うな。
一見弱そうに見せて、実は私たちにはわからない次元に飛び上がっている歌なんでしょうね。
こころみに
いとけなき日の我(われ)となり
物言ひてみむ人あれと思ふ
幼い時の私の話を聞いてみてよ、と彼は言います。別に今彼がいるのなら、今の彼の話を聞かせてもらえばいいのに、いや、幼い頃の私を見せてあげたい。その頃のしゃべりを聞かせたいという。
聞いてあげたいけど、タイムスリップすることはそんなにいいことなんだろうか。
そんなの何にもならないよと、今の私なら言うでしょう。その時のことばはその時にまわりに伝えなきゃダメ。あの頃の自分を見せたいなんて、それは思いあがりか、ナルシストかです。たぶん、どっちも啄木さんの持ち味ですか。
秋の気分になれたかなあ。素直に受け止めてあげてないね。今晩もう一度読み直してみるかな。
でも、突然の啄木さんですね? ハイ、突然、「一握の砂」だ! とひらめきました。でも、たぶん、失敗です。だから、捲土重来です。明日も雨か……。