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この絵は早世した洋画家の三岸好太郎さんの「兄および彼の長女」という作品です。第二回春陽会展の春陽会賞を受賞したものなんだそうです。(1924・T13)。好太郎さんは独学で絵の勉強をしたそうで、北海道から上京してしばらくして21歳の時にはこの作品で認められたのだそうです。そしてあと10年、彼の活動は続いていくのでした。
モデルは11歳年上のお兄さん、子母澤寛という作家でした。ということはお兄さんも30を少し越えたくらいで、読売新聞の記者だったそうだから、まだお勤めはされてたんでしょうか。好太郎さん自身も、節子さんという愛知県出身のアーチストと結婚したばかりでした。節子さんは2つ下の19歳だったんですね。
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これは節子さんの描いた自画像で、今も一宮の美術館に収蔵されています。
司馬遼太郎さんは「街道を行く 北海道の諸道」でこんな風に書いておられました。
好太郎は、不遇の人ではなかった。かれは札幌一中のころにすでに公募展(大正九年)に入選し、中学を卒えて上京すると、極貧のなかで絵を描き、春陽会展につぎつぎに入選して五年目の二十三歳のときには無鑑査になるという異常さだった。十八歳で東京へ出るや、ほどなく天才の評判を得たという画家は、明治以来ないのではないか。
そのお兄さんは、梅谷松太郎さん(作家の子母澤寛さん)といい、好太郎さんとはお父さんが違うようです。どういう事情であったのか、お母さんは札幌に出て行かれた。お父さんはどうなったのか、それはわからないですけど、お祖父さんに育てられた。きっといろいろな物語があったのでしょうね。
ただ放縦な生活によって健康を食いつぶし、東京へ出てから十三年後に名古屋の宿で胃潰瘍が悪化し、大吐血と心不全で急死してしまった。その才能の成熟を待たずに死んだというのは、画集をながめていて、若描きの作品にいちいち感心するよりも、惜しさのほうが先だってしまう。
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1924年、節子さんは19歳で結婚して、夫の好太郎さんは1934年に31歳で亡くなってしまいます。3人の子どもを育てながら絵を描いて、1999年に94歳で亡くなるまで活動されたということでした。
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去年の8月に三岸節子美術館に行かせてもらって、やっとどういう絵を描かれた人なのか、少しだけわかった気がしました。好太郎さんは、去年の秋に訪ねるチャンスがありましたが、札幌ではあまり動き回れず、行けませんでした。
今年もまた、チャンスがあったら行きたい感じです。
さて、子母澤寛さんというお兄さん、十歳ほど下の弟・三岸好太郎さん、その奥さんの三岸節子さん、三人に関係のあった司馬遼太郎さんの目を通して、北海道という地と自分とのつながりをぼんやり意識して書いてみました。
はるか遠い地とそこに生きた人々の思い、それにふれた旅人、その旅人の書いた旅行記を読んだ私。私にはたいしたつながりはないけど、そうした来歴を聞かせてもらって、また興味が出てきました。そして、絵も眺めてみたくなりました。絵の中の子母澤寛兄さんの雰囲気も見せてもらえたらいいな。
いつか、三岸好太郎さんの絵も見に行きたいです。以上、散漫な旅のまとめでした。北海道に行かせてもらったのは半年前でしたか……。