甘い生活 since2013

俳句や短歌などを書きます! 詩が書けたらいいんですけど……。

写真や絵などを貼り付けて、二次元の旅をしています。

聖徳太子さまと私たち

2024年10月13日 19時13分24秒 | 本読んであれこれ

 上原 和さんの『わが回想の聖徳太子』という本をたぶん2回目だと思いますが、読んでいます。2回目だろうなと思いつつ、すべては何もかも新鮮で、こんなことが書いてあるね、知らないなあとフレッシュな気持ちで読んでいます。記憶がないというのは怖いことですが、フレッシュな気持ちであるというのは素晴らしい。でも、本当は、何度も考える中で新たなものが見えてくる方がいいはずなんだけど、まあ、それはできないですね。

 2013年の9月28日、神戸の元町にある海文堂という本屋さんの2階に、古書コーナーが作られていて、そこで買った本でした。しばらして海文堂さんは閉店して、今ではそこはドラッグストアになっています。何とも言えない味気なさですけど、それも時代の流れなんでしょう。ささやかな本屋さんは潰れていく。チェーン店だって危ないし、本やという業態も世界からなくなるかもしれません。こんなに世の中がデジタル推しですから、紙の本は当然滅んでいきますね。

 まあ、せいぜい抵抗はしたいですけど……。

 いろいろ抜き書きしたいところがありましたが、聖徳太子のバックボーンのところを抜き書きしました。

 仏像を礼拝することが許されていたのはなにも蘇我一族だけでなく、おそらくは渡来者たちの間にも許されていたと考えられるのですが、そういう意味では、飛鳥の東漢(やまとのあや)など渡来者たちのなかで生まれ、育ってきた推古天皇や聖徳太子の生活環境は、いわば明治の初めころ横浜や神戸の外人居留地の近くで育ったクリスチャンの家庭に似ているといえます。



 そうですね。聖徳太子さんは蘇我氏系の人でした。関係の人たちはみんな、大阪の太子町というところでたくさん眠っておられるそうで、今度チャンスがあったら行ってみたいなと思うんですけど、いつになるかな?

 そうした渡来系の文化を受け入れる親戚縁者がたくさんいたようです。進取の気質は持っておられたようです。対抗する物部氏は、どんな人々だったのか、ただ古いものを守ろうとしたのか、もっとちゃんとした主張やアイデアがあったと思われますが、物部氏の人たちの考えたことや伝えたかったことは、滅びた側ですから、あまり残ってないのかもしれません。

 また、後のことになりますが、蘇我馬子から蝦夷・入鹿と続く蘇我氏も、やがては歴史の舞台を降りて、四国の土地に向かって、長曾我部さんの祖になったなんてネットにはあったけれど、本当のことはわかりません。



 太子の場合などは、仏教だけでなく、儒学や道教についてもこれらを学ぶ雰囲気が周囲にあったわけですが、その場合おそらくことばも朝鮮語や、あるいはその当時の渡来者の知識階級がマスターしていたであろう中国語も、自由に話せたものと思われます。

 こうした、特別に仏教を信ずることを許された蘇我氏や渡来者に対して、疫病が流行するたびにそれを国つ神のたたりとして、何度も、排仏派の物部尾輿や守屋たちが寺を焼いたり、仏像を堀に投げ捨てたりしていやがらせをしますが、それにもめげずに推古天皇即位の、いわば仏教解禁まで、およそ半世紀の間、蘇我の血につながる人びととの間で信仰の火が消されずに伝えられてきたのは、やはり彼らがまぎれもないボーン・ブディストであったからに違いありません。

 上原先生は、蘇我氏の一族がもともと仏教を受け入れるための下地があり、自然に受け入れられる体質みたいなのを持っていたのだ、と書いておられました。やはり、素養がなかったら受け入れられなかったでしょうか。小さい時からの積み重ねが仏教を信仰するベースになったというのです。

 そうかもしれないです。今の私たちは、神も仏もない世界に生かされているから、生まれながらに神なき子たちとして大きくなっているのかもしれないです。それはしあわせなのかどうか。私は、何か背景に持っている方が強いのではないのと思うけれど、みんな神も仏もなくしているようです。






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