甘い生活 since2013

俳句や短歌などを書きます! 詩が書けたらいいんですけど……。

写真や絵などを貼り付けて、二次元の旅をしています。

青空の下で

2024年07月07日 05時52分17秒 | 空を見上げて

 今みたいな、何もかもしなびれさせてしまう、恐ろしい暑さの日々ではなくて、もう少し穏やかな日であれば、外で何かをするというのは楽しいはずです。今はもう、とんでもないお昼の時間があるだけです。

 外で何かをする。それは木蔭であったり、草の上だったり、沈んでいく太陽を目の前にしていたりしたら、とても大事な時間になるし、気づいていなかったものだって見える気がします。

 それくらいに、外で本を読むにしても、勉強するにしても、仕事をする、庭木を切る、玄関の掃除をする、何でも大事にしたい。きっとそこから何かが生まれる気がする。暑すぎると倒れてしまうけど。そうなる前に適当に切り上げて、瞬間的に何かをすれば、それでいいと思う。



 北川民次さん(1894-1989)の展覧会を名古屋市美術館に見に行ってきました。1894年のお生まれで、生誕130年になるそうです。

 ルーツは静岡の方だけれど、東京で育ち、8人兄弟の末っ子で、早稲田にも入ったけれど中退して、お兄さんのおられるアメリカへ渡った。最初は西海岸iにいたけれど、絵の勉強がしたかったから、ニューヨークの美術学校の夜間部に通ったそうです。昼間は、絵に関わる作業をして、労働者となり、夜はあこがれの先生に教わって絵を描いたということでした。

 先生はジョン・スローン(John Sloan 1871-1951)という方で、誰もが絵を描き、人々を描き、人々の生活を描き刻んでいきなさい、というような指導をされたそうです。アメリカでも人間は描けるだろうけど、ニューヨークにいる人たちは、忙しくてとても描けそうになかった。

 人を描くにはメキシコへ行こう! ということになり、キューバ経由でメキシコに渡ります。そこで何年かいたわけですが、子どもたちに絵を描かせるのを仕事にしたということでした。

 主要科目を学ぶ塾はあるだろうけど、絵を学ぶために、外国人の先生のところへ子どもをやるというのは、なかなかできないというのか、それが意味のあることなのか、それは親としては疑問だったかもしれない。

 でも、子どもたちが何かに生き生きと取り組んでくれるのは嬉しいことだから、親たちも不思議な東洋人の先生のところに絵を学びに行かせた。これで生活を立てて、数年はメキシコに滞在していたし、結婚もしたし、藤田嗣治さん(レオナール・フジタ)とも交流したそうです。

 メキシコは彼の大事なテーマになりました。


 藤田さんのススメで、せっかく生きていく場所を見つけたのに、北川さんは帰国してもいいかなと思ってしまい、海を渡って日本に戻ってきます。それが1936年で、1940年・皇紀2600年・昭和15年、日本は最悪に向かって進んでいる時でした(確か、2020年頃にも最悪に向かって突き進んでいく時がありましたね。あの時もKさんが東京にいて、マリオブラザーズの首相と仲良くしていましたか)。

 やがては東京に住めなくなり、奥さんの実家である愛知県瀬戸市に疎開することになります。そこでもメキシコでやっていたことを実践して、人々に絵を日常的に持ってもらう。絵に親しんでもらう。そういうことを大切にして、青空・絵の教室をやろうとしたみたいです。

 けれども、メキシコみたいにうまく素直に受け入れてもらえたのかどうか。ピアノを学ばせるというのはあるけれど、子どもを絵の塾に行かせるって、そういう文化がうまく根付かなかったようです。


 とはいうものの、私は、今こそ、もっと広い静かな空間で、それぞれが思い思いの絵を描く時間を確保してくれる、そういう塾というのか、ガッコーみたいなところは今日的なテーマでもあるんじゃないか、なんて思いました。

 日本各地に、絵の学校が生まれたら、日本も変わっていくかもしれない。教育は上意下達だから、自分で何かを考えて作り出すというのはなかなか生まれないけれど、教育の場ではなくて、もっと私的なところでみんなが絵を学ぶ、スイミングスクールに行くように、ピアノを習うように、将棋の教室に行くように、いろんな学びの場はあるのですから、それらの一つとして、パブリックな学校ではない、絵の教室が当たり前にあちらこちらにある、そういう日本になればいいなあ。

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