昔、うちの奥さんと遠距離恋愛を3年ほどしていました。ナマケモノの私ですが、この当時は少しだけ頑張りました。何しろ自分の恋愛ですから、自分が頑張らないと何も生まれないのです。
といっても、月に1回くらい会うだけです。何が楽しいというと、ただお互いの顔を見て、お互いを確認し合うだけだったような感じですけど、それだけでうれしかったんですね。会わないと、とにかく不安で、会えないときはとにかく手紙書いて、つまらない報告をいっぱいしていました。そういう遠距離恋愛でした。
うちの奥さんは東京勤務だったので、私はノコノコと新幹線で東京へ出ていきます。そのころは車窓を楽しむ余裕があんまりなかった。たぶん、本も読まず、食べ物も食べず、ケータイなど無くてちゃんと待ち合わせの時間に会えるかどうかハラハラし、うわの空で新幹線に乗ってましたっけ……。もったいないですね。もっと有効に時間を使う人はいるでしょうけど、私は昔も今もボンヤリ系なので、ムダに3時間乗っていたことでしょう。
東京に出たら、ごくたまに浅草に出てみることがありました。田舎者の私は、その昔、芸能文化が華やかだった土地・浅草へのあこがれを持っていました。地下鉄から上がって、浅草寺の仲見世を歩いたら、そのあでやかさに感心しました。浅草寺は、大阪の四天王寺とよく似た雰囲気で、少しだけ天王寺的な要素のある街なのかなと、勝手な印象を持ちました。私の中では浅草は四天王寺と地続きでした。
天王寺的ということは、少しガサツで、古くさくて、商店街も縦横にあって、大衆演劇の要素もあって、芸能関係とはいっても、メジャーな芸じゃなくて、地元の小さな劇場で、地域のお客を相手に舞台を繰り広げるような、そんな街と重ね合わせてみたりしました。
でも、今は違います。東京は日々進化しているから、対岸のスカイツリーやら、東西・南北・地下などを最大限に利用して、ものすごいエンターテイメント空間が作られています。今から30年くらい前なら、どこか古ぼけた感じもありましたが、今はきっとそんなことはないでしょう。もうピカピカです。
だから、私は二度と浅草には足を踏み入れないと思います。用事もないだろうし、観光もしたくありません。スカイツリーは全く興味がありません。私の「浅草」は、本や昔の映画の中にしかないような気がします。せいぜいそういうものを味わいましょうか。
この私が、浅草へのあこがれを抱いたのは、NHKのドラマがきっかけでした。
小野田勇脚本の「わが歌声の高ければ」というドラマで、1969年のほんのわずかな期間だけのドラマでしたが、夜の銀河ドラマとして放映されました。私は、たいてい寝る時間に近く、たいていフトンに入って見ていたような記憶があります。
そうでした。昔、あまりテレビは見せてもらえなくて、父母公認のものしか見られないので、うちの母が見たいと思った番組を一緒になって見せてもらうしか道はなかったんでした。だから、時々エッチなものとか、夏に怖いものとかをテーマにする宇津井健さんの「ザ・ガードマン」も、フトンの中で見ていて、怖いときの回はトイレにも行けず悶々とし、エッチな回のときは目のやり場に困りしたものでした。夜のドラマはフトンの中で見るものだった。
それで、「わが歌声の高ければ」ですけど、浅草の軽演劇の世界が繰り広げられます。坂本九ちゃんが主役で榎本健一さんがモデルの役を演じます。黒柳徹子さんとか、左トンペイさんとか、その他の人たちがいたようですが、まるでおぼえていません。私の中にあるのは、ドラマの中の人々がとてもお互いを思いやり、共同体としてみんなで浅草世界を生きようとしていたことでした。
ドラマの時代は暗いはずなのです。いかに軽演劇やら、明るい舞台を演じても、どんどん時代は戦争に突入することになるし、たぶん九ちゃんも戦争に行くことになったと思います。そして、別れがあり、悲しみが押し寄せてきます。けれども、最後の舞台になっても、九ちゃんたちは自分たちのスタイルを守り通し、明るく舞台を去っていくのでした。
そして、何回かの連続ドラマが終わり、母は言うのです。
「ねっ、戦争は本当にいけない。私は子どもたちを戦争にはやりたくない。私は戦争には反対」
少し無理矢理ですが、母には自然な流れで、何かにつけて戦争嫌悪を子どもに訴え、自分の気持ちを伝えてくれました。息子の私は、よくはわからないけれど、戦争はダメなものらしいと日々すり込まれていったのです。
でも、私の戦争反対観はまだまだ甘っちょろいです。もっと強く、激しく訴えなきゃいけないのに、どうも口先だけで訴えています。なかなか自分でもことばに強さをこめられていない。ことばに強さを与えるのは、日々の積み重ねなので、私はこれからももっといろんなことを知って、ありふれたことばに重さをこめられる人間になりたいですけど、まだ足りません。
劇中で(劇中劇で?)歌われる「わが歌声の高ければ」は、ドラマの細部は忘れても、五十男の私にもいまだに残っていることばになりました。少しずつ、これは晶子さんのダンナさんである与謝野鉄幹さんの作ったもので、1番目は「妻をめとらば……」という内容だというのが分かってきましたが、当時は全く知りません。
とにかく「わが歌声の高ければ……」そこから歌詞はうろおぼえで、とにかくみんなが理想を求めて、お互いを励まし合って、舞台や、地域や、社会を作っていこうという内容なのだと勝手に解釈し、社会をつくるためにはみんなを励ますことばが必要で、みんなで声を合わせて理想を求める歌を歌って行かなきゃ、と小さいながら思いました。
とはいえ、小学生ですから、学校に行けば、スカートめくりに励み、女の子に嫌がられ、それでも懸命に愛想をふりまき、体育はうまくできず、ドッジボールではすぐにやられ、走りは遅く、徒競走は恐怖で、算数ドリルはすぐに嫌気がさし、社会の暗記物だけはなんとなくできるような、典型的なダメな子どもだったので、理想と現実はかけ離れていました。
でも、みんなで励まし合っている大人たちの世界が見られたのは、しあわせでした。それは今でも私の理想です。
人に声をかけたり、相手が何か言って欲しいという時にうまく声かけのできない私ですけど、本当はみんなに軽い感じで声をかけたい。調子に乗るとすぐに余計なことをいってしまうし、逆に相手を傷つけることを言ってしまうのがオチなので、少しずつしゃべらないオッサンになってしまってますけど、ふたたび昔の理想を、オッサンのやり方で実践していくというのも大事ですね。
というわけで、「わが歌声の高ければ」でした。ビデオもないようです。エノケンさんのこと、いつか書いてみます。今日は、とにかく自分の原点回帰でした。
昔の絵はがきをスキャンするのも、その1つなんでしょうね。
といっても、月に1回くらい会うだけです。何が楽しいというと、ただお互いの顔を見て、お互いを確認し合うだけだったような感じですけど、それだけでうれしかったんですね。会わないと、とにかく不安で、会えないときはとにかく手紙書いて、つまらない報告をいっぱいしていました。そういう遠距離恋愛でした。
うちの奥さんは東京勤務だったので、私はノコノコと新幹線で東京へ出ていきます。そのころは車窓を楽しむ余裕があんまりなかった。たぶん、本も読まず、食べ物も食べず、ケータイなど無くてちゃんと待ち合わせの時間に会えるかどうかハラハラし、うわの空で新幹線に乗ってましたっけ……。もったいないですね。もっと有効に時間を使う人はいるでしょうけど、私は昔も今もボンヤリ系なので、ムダに3時間乗っていたことでしょう。
東京に出たら、ごくたまに浅草に出てみることがありました。田舎者の私は、その昔、芸能文化が華やかだった土地・浅草へのあこがれを持っていました。地下鉄から上がって、浅草寺の仲見世を歩いたら、そのあでやかさに感心しました。浅草寺は、大阪の四天王寺とよく似た雰囲気で、少しだけ天王寺的な要素のある街なのかなと、勝手な印象を持ちました。私の中では浅草は四天王寺と地続きでした。
天王寺的ということは、少しガサツで、古くさくて、商店街も縦横にあって、大衆演劇の要素もあって、芸能関係とはいっても、メジャーな芸じゃなくて、地元の小さな劇場で、地域のお客を相手に舞台を繰り広げるような、そんな街と重ね合わせてみたりしました。
でも、今は違います。東京は日々進化しているから、対岸のスカイツリーやら、東西・南北・地下などを最大限に利用して、ものすごいエンターテイメント空間が作られています。今から30年くらい前なら、どこか古ぼけた感じもありましたが、今はきっとそんなことはないでしょう。もうピカピカです。
だから、私は二度と浅草には足を踏み入れないと思います。用事もないだろうし、観光もしたくありません。スカイツリーは全く興味がありません。私の「浅草」は、本や昔の映画の中にしかないような気がします。せいぜいそういうものを味わいましょうか。
この私が、浅草へのあこがれを抱いたのは、NHKのドラマがきっかけでした。
小野田勇脚本の「わが歌声の高ければ」というドラマで、1969年のほんのわずかな期間だけのドラマでしたが、夜の銀河ドラマとして放映されました。私は、たいてい寝る時間に近く、たいていフトンに入って見ていたような記憶があります。
そうでした。昔、あまりテレビは見せてもらえなくて、父母公認のものしか見られないので、うちの母が見たいと思った番組を一緒になって見せてもらうしか道はなかったんでした。だから、時々エッチなものとか、夏に怖いものとかをテーマにする宇津井健さんの「ザ・ガードマン」も、フトンの中で見ていて、怖いときの回はトイレにも行けず悶々とし、エッチな回のときは目のやり場に困りしたものでした。夜のドラマはフトンの中で見るものだった。
それで、「わが歌声の高ければ」ですけど、浅草の軽演劇の世界が繰り広げられます。坂本九ちゃんが主役で榎本健一さんがモデルの役を演じます。黒柳徹子さんとか、左トンペイさんとか、その他の人たちがいたようですが、まるでおぼえていません。私の中にあるのは、ドラマの中の人々がとてもお互いを思いやり、共同体としてみんなで浅草世界を生きようとしていたことでした。
ドラマの時代は暗いはずなのです。いかに軽演劇やら、明るい舞台を演じても、どんどん時代は戦争に突入することになるし、たぶん九ちゃんも戦争に行くことになったと思います。そして、別れがあり、悲しみが押し寄せてきます。けれども、最後の舞台になっても、九ちゃんたちは自分たちのスタイルを守り通し、明るく舞台を去っていくのでした。
そして、何回かの連続ドラマが終わり、母は言うのです。
「ねっ、戦争は本当にいけない。私は子どもたちを戦争にはやりたくない。私は戦争には反対」
少し無理矢理ですが、母には自然な流れで、何かにつけて戦争嫌悪を子どもに訴え、自分の気持ちを伝えてくれました。息子の私は、よくはわからないけれど、戦争はダメなものらしいと日々すり込まれていったのです。
でも、私の戦争反対観はまだまだ甘っちょろいです。もっと強く、激しく訴えなきゃいけないのに、どうも口先だけで訴えています。なかなか自分でもことばに強さをこめられていない。ことばに強さを与えるのは、日々の積み重ねなので、私はこれからももっといろんなことを知って、ありふれたことばに重さをこめられる人間になりたいですけど、まだ足りません。
劇中で(劇中劇で?)歌われる「わが歌声の高ければ」は、ドラマの細部は忘れても、五十男の私にもいまだに残っていることばになりました。少しずつ、これは晶子さんのダンナさんである与謝野鉄幹さんの作ったもので、1番目は「妻をめとらば……」という内容だというのが分かってきましたが、当時は全く知りません。
とにかく「わが歌声の高ければ……」そこから歌詞はうろおぼえで、とにかくみんなが理想を求めて、お互いを励まし合って、舞台や、地域や、社会を作っていこうという内容なのだと勝手に解釈し、社会をつくるためにはみんなを励ますことばが必要で、みんなで声を合わせて理想を求める歌を歌って行かなきゃ、と小さいながら思いました。
とはいえ、小学生ですから、学校に行けば、スカートめくりに励み、女の子に嫌がられ、それでも懸命に愛想をふりまき、体育はうまくできず、ドッジボールではすぐにやられ、走りは遅く、徒競走は恐怖で、算数ドリルはすぐに嫌気がさし、社会の暗記物だけはなんとなくできるような、典型的なダメな子どもだったので、理想と現実はかけ離れていました。
でも、みんなで励まし合っている大人たちの世界が見られたのは、しあわせでした。それは今でも私の理想です。
人に声をかけたり、相手が何か言って欲しいという時にうまく声かけのできない私ですけど、本当はみんなに軽い感じで声をかけたい。調子に乗るとすぐに余計なことをいってしまうし、逆に相手を傷つけることを言ってしまうのがオチなので、少しずつしゃべらないオッサンになってしまってますけど、ふたたび昔の理想を、オッサンのやり方で実践していくというのも大事ですね。
というわけで、「わが歌声の高ければ」でした。ビデオもないようです。エノケンさんのこと、いつか書いてみます。今日は、とにかく自分の原点回帰でした。
昔の絵はがきをスキャンするのも、その1つなんでしょうね。