昔、電車通勤でした。ものすごく昔。阪急に乗ってました。30分くらいだったか。ものすごく長い時間乗ってる気がしました。駅に着いたら、解放されちゃって、つい公園の中を歩いていきたくなりました。公園にはどういうわけかユーカリの木が植えられていて、雨が降った日の翌日など、ユーカリの実なのか、それらが落ちて独特の匂いをさせていました。
まさか、年がら年中実をつけてるわけではないから、たまたまそういう日もあったということなんだろうけど、あの匂いは強烈でした。別にコアラを育てているわけではないのに、万博つながりでユーカリかな? とか、見当違いのことを考えていましたっけ。万博につながれば、何だって許してしまう、そんな心性を育てていたんです。いや、むしろ積極的に、何でも万博につなげてうれしがっている節もあった。不思議な私の心のしくみではありました。
それより電車通勤でした。始発駅から乗るのに、たいていは座れなかった。だから、適当なスペースを見つけてドア付近に立つか、たまたまどこかに割り込んで座るか、そんなことをしていました。
本を読んでましたか?
いえ、本ではなくて、旺文社の国語辞典の第6版(5版?)かを持って、赤ボールペンを握りしめ、一つずつながめ、これはというところに定規を使って線を引いていました。これは高校の時の勉強のやり方でしたね。一度大事と思ったものには定規できっちり線を引いて、引いたら安心してすぐに忘れて、また何度も見返す、あのやり方を20代半ばになってもやってたんです。それが唯一の勉強法だったのかな。いつもながらの非効率なやり方でした。
そして、当時は慣用句が気になって仕方がなかったんです。世の中には私の知らない言い回しがたくさんあって、世の大人たちはそういうのを当たり前に使って、それらしいしゃべりをしていました。私もそういう大人たちに近づきたかったけれど、そのやり方が分からず、とりあえず昔からのやり方で、基本的な辞書からスタートしようとしていました。大人になりたかった、ということもあるのかな。
「烏有(うゆう)に帰する」って、何でしょう。こんなのオッサンになった今でも使わないけれど、でも、辞書には乗っています。「烏(カラス)」という意味ではないみたいで、「いずくんぞあらんや」と漢文読みするらしい。どうしてあるのか、という意味だから、何もないという意味で、「何もないものになる。すべては消え去る。」そういう意味になるらしいです。でも、いろいろやってたことがすべてチャラになってしまうなんて、そんなにあることではないから、私はどうにか今まで使わなくて済みました。
でも、線引っ張って、カード書いて、アイウエオ順に並べて、これまた古典的なやり方でストックを増やしていました。それが何の意味があるのか、もちろん意味のないことだけど、闇雲にやらねばいられない気分ではあったのです。人のやらないことをしたいひねくれ者ですから。
時々は発見もあったと思うんですけど、どんなことを発見したのか、それはわかりません。今の若い人は、もっと違う方法で大人になる道を模索するんでしょう。でも、手がかりはあの小さな電子機械なんだろうな。あれがすべてなんですもんね。
「旧交を温める」という言葉もありました。昔の付き合いを再度やり直し、新しい関係性を作るという意味ですけど、当時の私にはただの文字だけが並び、特に意味のある言葉に思えなかった。世の中にはそういうことはあるのかもしれないけど、そんなの、今の自分には全く縁がないし、実感がありませんでした。
あれから何十年も経過して、自分はいい年のオッサンになってしまい、人との関係というと、次から次と過去の淵へ放り投げてきたから、今しかない空間に生きているけど、実は私にも、見直し、再び作り直さねばならないつながりがあったのだ、と今さらながら知ることになり、ただの辞書の言葉が、とてもリアルなものになっているのです。
それで、どんなにして「旧交を温め」ているか? それが、なかなか思うように行かなくて、せいぜい友だちにメールしたり、LINEしたりして、ネット空間で「温めて」いるだけです。今はそれしかないのかな。
慣用句を使って、短文練習しようとしたんですけど、つまらないものしか書けそうにないから、やめにして、思い出話にしました。
混雑した阪急電車の中で、もみくちゃにされながら辞書読んでたなんて、変なヤツがいましたね。なかなかアホウで、いじらしいなあとか思ってしまう。