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井出孫六さんの『峠の廃道』(1995 平凡社ライブラリー)というのを読んでいます。もう半分を越しました。それで、やっとあっと思うところがありました。
今までは、井出さんが長野県の人で、小さい頃から、細い向こうの峠道から最新情報が次から次とやってきた時代の記憶から、かつて明治の初めに、自由民権運動や市民蜂起みたいな直接行動も山の向こうから峠を越えてやってきた。
そのあれこれをいろんな証言をもとにたどるという、秩父困民党紀行という副題がついているくらいで、井出さんの旅の記録でもありました。
実際に取材に入り、足跡をたどり、いかに人々は立ち上がったかを見てきたはずでした。
一万人くらいの農民暴動で、その首魁者の田代栄助という人は渡世人みたいな感じの五十男、すべての責任をかぶり、数日で鎮圧された混乱の中で命を落としたようでした。
菊池貫平さんは、弁護士の仕事をしていたそうです。裕福な家庭の三男として生まれ、才能を見込まれて菊池の家に入る。何でも人に言われたことは、碁でも、俳句でも、三味線でも、何でもできてしまう人だったようです。
そして、明治の初めの世の中で、訴訟というものが起きると、その弁護士(代言人)として活躍もしていたということでした。
ある秋の日、山を越えて秩父の方から、農民の解放をめざす活動・蜂起・革命を山の両側で起こそうではないかという勧誘が来て、一度様子を見て来ようと村の代表として四人の選ばれた人が山を越えたということでした。
納得できなければすぐ帰るという話であったのに、すぐに部隊の中に取り込まれ、だったら参謀長としてあれこれ策略を考えさせてくれと内部に入り込み、秩父の農民の反乱は四日で平定され、雲散霧消した農民軍を立て直して、山を越え、長野県側の地元の村に行くと、どんどん農民軍を吸収して数百人の勢力となったそうですが、こちらにも国家の軍隊がやって来て、長野県側も平定され、菊池貫平さんは逃亡生活を送ったそうです。
長らく逃亡した後、逮捕され、網走の監獄で刑期を終えて帰ってきたら、仲間たちはすでになく、支えてくれた妻もなくなっていたという、そんな人生だったということです。
気づいてみたら、自分ひとりが取り残されていた。
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生き残ったことに学びたいのではなくて、乗り掛かった舟なら、パッと命を散らすという生き方もありますが、冷静にこの状況下で、どんなことができるか、誰が味方になってくれるか、この先農民軍を組織したとして、政府にどんな影響が与えられるか、全国の不平を持つ農民の支持を得られるか、あれこれ考えながら、やれることをして、万策尽きた後はどこまでも逃亡して、次なるチャンスを探す。
このしたたかさを見習いたいと思いました。
いろんな置かれた状況はあります。そこで、今自分のできること、共感を持ってもらえる仲間、敵とする相手の力を計算する。そこへの対処。失敗した時の次なる手。いつも前向きで、投げやりにならず、徹頭徹尾反発する。![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/68/6f/b846698e33cdbecea7ccfc1f2e43780d.jpg)
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私にどれくらいのことができるか、それはわからないけど、暴力革命ではない、平和革命は、それがどんな形になるのか見当もつかないけど、世の中を変えていく、その心構えは見習いたいと思いました。
まあ、私には、世の中を変えるなんて、絶対にできないんですけど、気持ちは持ちたいです。