2023年の6月、三重県の古本屋さんが集合するイベントがありました。その時が初めてだったかなあ。私たちは夫婦で参加して、私は文庫で「フルトベングラー」と「バッハ」という2冊を買いました。それから1年、この2冊、本棚に飾られてはいるけれど、なかなか読めていないのです。音楽を聴くというのと、音楽のことを読むというのは、また別のことのようです。音楽を聴くのなら2時間もあれば聴いてしまうのに、本となると、1年かけても読めていない。というか、読もうという気にもなれてなかった。ああ、何たることか。
そういう反省も踏まえ、今年もイベントがあって、私たちは夫婦で参加しましたが、私は何も買えませんでした。私は1冊百円という世界でうごめいているオッサンなのです。500円以上の本なんて、清水の舞台なんだろうなあ。
だから、少しおしゃれな、三重県の古本屋さんイベントでは、私のとっかかりはありませんでした。残念でした。百円の本しか買えないオッサンだったんですねえ。
というわけではありませんけど、音楽評論家の宇野功芳さんの文章から抜き書きしてみます。(古い打ち込み資料から掘り出してきました)
フランスでは子供と犬は泣かない、ということわざがあるが、たしかにこの国の子供のしつけは厳しい。未成年は一人前の人格とは認められず、とくに家から一歩外に出たら、甘えたり、わがままを言ったりすることは絶対に認められない。家に来客があったときも同様で、お客の居る部屋で騒いだりすれば、たちまち父親の鉄拳がとんでくる。絶対に容赦はしない。夕食も子供だけは先に食べさせられ、八時には自分たちの部屋に行かされる。あとは大人だけの時間となる。
これはフランスのみならず、ヨーロッパでもアメリカでもほぼ同じで、ほとんど子供嫌いを思わせるが、実際は子供がかわいいからこそ厳しくしつけるのであり、その代わり、一定の年齢に達して自我が確立したと認められると、今度は完全な自由をあたえられる。そこには親ばなれできない子、子ばなれできない親などの存在する余地はいっさいない。 〈宇野功芳『中学生の教科書』(2000)より〉
そんな世界があるんですね。私んちなんて、ナーナーでやってるから、何もかもだらしなくて、何もかもが依存型で、自立したものがないですね。何てことだ!
ぼくは敢えていうが、音楽のみならず、すべての芸術は命を賭けるのに価する。舞台人は親が死んでも舞台は休まない。それが役者の宿命なのだ。音楽だって同じだ。芸術というものはパンには関係ない。音楽なんかなくても人間は生きられる。しかし、ある人にとってはパンよりも大切なのだ。それは魂に関係があるからである。
ベートーウェンは彼の音楽で何を語っているのだろうか。人間の弱さ、醜さ、哀しさ、そういうものとたたかい、そういうものを少しでも克服し、魂のよろこびを得ようとしているのだ。
ああ、私たちは日々のパンのことばかり齷齪(あくせく)していて、ほとんどすべてがそればかりです。そういう生活を吹っ飛ばして、一つのことに打ち込んてみろ! と言われても、オッサンの私にはもう何もないですね。絶対にベートーベンにはなれないのです。まあ、当たり前ですね。
思えば、人間はなんと悲しい存在なのだろうか。突然、この世に放り出され(自分の好きな国、好きな時代を選ぶことも出来ない)、楽しいこともたくさんあるが、苦しみや悲しみもまた多く、すべてにおいて不公平、不平等であり、やがては年老いて死んでゆかなければならない。その死ぬ時期を自分で決めるわけにはゆかないし、苦痛の中に息を引き取らなければならない人もたくさん居る。〈宇野功芳『中学生の教科書』(2000)より〉
ああ、何もかもできない私たちは、何か打ち込むことはないか、なんてオッサンになってわめいている。それはもう遅いんだと思う。今さら無理なんだろう。でも、わめかずにはいられないから、もう好きなようにやらせるしかありません。
とりあえず、何もない私は、そのうち何とかなるだろう、なんて言っている。そんな平和な私だから、きっとぼんやりしているうちに終わってしまう。まあ、それは仕方がないです。何か自分にできること、自分だけでできること、人に見せずにこっそりやってること、あるかなあ。ないのかなあ。