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下村湖人さんの「論語物語」というのは以前、だいぶ昔に読みました。もう一度読みたいのだけれど、なかなかチャンスに恵まれません。
二年前の秋の四天王寺の古本市で、そういうこともあったので、下村湖人さんの「現代訳 論語」(角川文庫 1967)というのを買って、二年間寝かしてありましたが、柚月裕子さんの本にかかりっきりになっていて少し疲れたので、チラッと浮気して(なかなか進まないのでイヤになってしまった)、こちらにも手を出してしまいました。
それで、他の本で読んでいたら全く引っかからなかったことばが、この現代訳版ではスッと心に入ってきました。少しびっくりでした。
八いつ編の中にあることばです。
先師がいわれた。
「不仁な人が礼を行ったとてなんになろう。不仁な人が楽を奏したとてなんになろう」
という割と短い文句でした。
岩波文庫版の「論語」を見てみますと、
子の曰わく、人にして仁ならずんば、礼を如何(いかん)、人にして仁ならずんば、楽を如何。
(先生が言われた、「人として仁でなければ、礼があってもどうしようぞ。人として仁でなければ、楽があってもどうしようぞ。)
というふうになっています。
できれば、中国語で読んでみたら、孔子先生の雰囲気が伝わるんですけど、私の勉強は、こちらはダメでした。中国語の発音で読むのはあきらめましょう。
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仕方なく訳されたもので意味を取るわけですが、「礼」「楽」ともに大切なものです。
式典などでの儀礼・しきたり・進め方みたいな、儀式をスムーズに進行していくことという風に考えたらいいでしょうか。上手に式典を執り行うこと、それを「礼」としましょう。
「楽」は、音楽といってもいいかもしれない。でも、普通の音楽ではなくて、気持ちを落ち着かせたり、逆に気持ちを躍らせたり、気持ちに作用するものではあります。そして、そういう音楽に関わるということは、教養も高まりますし、個人の感受性を鍛えるものとなります。政治においては、そうした教養・文化をたしなむことが大切で、利益誘導やら、経済発展やら、税収アップなどの利益から一番遠い素養です。
どんなに式典を立派にしても、どんなに立派なパフォーマンスができたとしても、また、どんなにオリンピックなどの国家的行事、新天皇の即位の祭礼を取り仕切るなど、あれこれしたとしても、見た目は何だか立派に見えたとしても、それを行う人が誠実で、ウソがなくて、人のことを思ってくれている人でなくては、どんなことをしたとしても、すべてはウソっぱちだと、孔子先生は二千五百年の歳月の向こうからおことばをくださいました。
そうなのです。すべての国家的なイベントは、誠実な人柄の人が行わないと、1936年のベルリンオリンピックのように、ただのプロパガンダ(政治的宣伝)にしかなりません。
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私たちが住んでいるこの国も、誠実な人って、本当に見当たりません。みんな自分のことばかりしか考えていない。その最先端はトランプさんでしょうけど、もうみんなが権力を握りたくてウズウズしている。なぜなんだろう。
仁の人、いないのかなあ。