甘い生活 since2013

俳句や短歌などを書きます! 詩が書けたらいいんですけど……。

写真や絵などを貼り付けて、二次元の旅をしています。

この国の祈り 正しい伝統について

2014年01月21日 21時43分19秒 | ザンネン日記・身辺雑記
 今日の夕方、灯油を買いに行きました。1Lが97円でした。いつも買うセルフのお店がその値段で、ご近所のコメリさんは百円でした。とうとう灯油も百円時代に突入しました。これはびっくりです。そのうちドルと連動して、円高になれば安くなって、円安になったら高くなる、これは当たり前でした!

 言いたかったのは、灯油が1ドルと同じように、同じくらいの値段で変動するのかなと思っただけでした。たぶん、昔、つい数年前なら1リットルが50セントとかいう時代もあったでしょうか? (そうではなかったかもしれません)全然相場がわからないので適当なことを書きました。失礼しました。

 さて、この間から考えていることですけど、神社にまつられている人というのは、後世の人たちが「恨みを持って亡くなったのではないか」と考えた人が多いように思います。西洋や他の国はどうなのかわかりませんが、この国の人々は、先人の恨みがこの世に残り続けるのを非常に怖れました。できればその魂を慰め、近辺にある者たちを見守ってほしいと、神様としておまつりしてきたようです。別の見方をすれば、身辺にある霊魂にすごく敏感な人たちだったような気がします。

 古くは天神さんになった菅原道真さん、江戸の土地神になった平将門さんらがいて、中世では北畠一族や結城宗広さん(もっとたくさんいると思います)、近世には渡辺崋山さん、吉田松陰さん、近代になれば乃木希典さんなどがいます。もっと古い人だと、柿本人麻呂さんもいます。もっと調べれば、たくさんの方たちが神様としてまつられているはずです。

 天神さんは、藤原氏との権力闘争に破れ、九州に左遷され、決してそんな激しい気性の人ではなかったかもしれないし、本来はそういう激情を持った人だったのかわかりませんが、とにかく亡くなってから都で異変が起こり、ただでさえやましい気持ちを持った人たちがどんどん事故に遭った。そうなれば、それはもう伝説が生まれる。そして第三者の人々は、できればとばっちりには遭いたくないから、「もうそこらで鎮まってください。そして、うちの子どもの学問の神様にでもなってください」というような祈りから天満宮を作っていったと思うのです。

 たぶん、平将門さんにも、北畠一族の方たちにも、人々はそういう気持ちでお社を建てて、おまつりしてきたと思います。それが何百年も続いてきたことはすごいことですが、何しろ特定の土地を縄張りにしておられる神様だから、その土地に住む者も、その土地を旅する者も、たまたまその人にあこがれて訪ねてきた人も、みんながお社に参って、挨拶を重ねてきて、それらが集積して現在の信仰があります。

 これは、宗教というよりは、祈りです。特にありがたいお経があるわけでもないし、その神様たちが救済を求めて神様を探求したわけでもありません。主に政治の世界でがんばって、挫折して、非業の死を遂げた人たちばかりですので、とにかく残念でしたとお祈りした。そして、本来は力のある人たちだから、そのお力におすがりするような気持ちもあって、学問やら、忠誠やら、文芸やら、あれこれ余得をお願いもしました。

 さて、これがこの国でまつられてきた神様の一群であります。自然崇拝の原始宗教もいくつかありますが、これらもたいてい富士山や浅間山、立山、霧島山など、活火山にお鎮まりくださいとお祈りしたり、大きな木、大きな石にあやかりたくておまつりしたり、岬の先端から太陽を拝むのに最適な所なのでお社を建てたりして、祈りの気持ちで神様としてきました。これが日本の信仰の形だと思います。

 そうなると、祈りの成立しない所に神様は本来成立しません。どんな所でもいいから、とにかく自然にしろ、人物にしろ、そこにお祈りしたくなる伝説がなくてはいけません。何もかも一緒くたにしたよう所に祈りは成立しないと思います。無理矢理、伝説をでっちあげたり、いろんな人たち、いろんな状況の人たち、その人たちの思いが祈る者に伝わってこない所にはお社を建てるべきではありません。個々の思いは、それぞれ違うのです。天神さんが、もし東照宮大権現家康さんと一緒にまつられたら、それこそ混乱して、何がなんだかわからなくなります。

 まあ、普通はそんな愚かなことは行われません。個々の魂を慰めるには、個々の思いを持った後世の人たちが必要なのです。学問がしたい人、野望を抱く人、短歌が上手になりたい人、マイナーなトップを抱きたい人、太陽に何かいいたい人、それぞれの思いを抱いて、それにふさわしい神様の所に行って祈るべきなのです。

 当たり前のことを書きました。その当たり前のことが行われず、祈りを政治的メッセージか、パフォーマンスとはき違える人たちがいて、この国の伝統を汚しているなあと、少しイヤになって書きました。でも、当たり前のことが行われないことこそ、現実というべきでしようか。


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