渡辺崋山さんは、まさかと思いましたが、神様になっていました。その名も崋山神社といいます。お城を見学して、そのまま順路の矢印に誘われて、地下通路みたいなところを進み、出てきたところが、少し古風な建物でした。そこを出たときに、その名称を崋山会館といい、結婚式場もやっていると知ることができました。訪ねたときがものすごく暑い、夏真っ盛りだったので、結婚式どころではなかったのですが……。
田原市の方たちは、郷土の偉人をしのんで、ここで結婚式を挙げるのかもしれません。少しクラッシックではあったので、びっくりしましたが、それでもちゃんと神式で結婚できてしまうので、それはそれは結構なことだと思いました。
たしか崋山さんは江戸に生まれ、江戸で勉強をして、出身藩のために何か貢献できないかと考え、江戸にいるいろんな人たちと交流し、これからの日本はどうあるべきなのかを考えたり、時には江戸近郊を旅してみたりしました。絵が上手だったので、絵の研究もして、肖像画にも優れた作品を残した人です。この人の伝記を読んで、江戸時代の旅人の記録に興味が湧いたくらいで、江戸期の後半にはステキな旅行記がたくさんあります。ボクは不勉強で、まだまだこれからですが、ここに宝の山があるのは知っていました。
さて、崋山さんです。彼なら、もっともっと自らの才能を伸ばして、もっと好きなことをしてもらえたらよかったのです。しかし、武士ですので殿様のためにならねばならないですし、好きなことばかりもしていられない。外国船が時々やってきたり、幕府の政治もトップが変わるたびに各藩にもしわ寄せが来たり、時流に乗らねばならなかったり、藩の舵取りもしなくてはならなくなってきた。そして、ちよっとした発言のせいで謹慎させられて、そのまま悶々とするうちに自害の道を選んだのではないかと思うのです。ちゃんと調べて書いてないので、少しいい加減なところがありますが……。
そのことを思うと、もう少し遅れた時代に生まれたら、幕末に勝海舟さんみたいな働きができたかもしれないなと思うのですが、過去の歴史に「タラ・レバ」を言っても仕方がないので、とにかく才能豊かな、マルチタレントの崋山さんは、その時代に合った形で精一杯生きていた。でも晩年が不遇で、もう少し彼の持てる力を発揮させてあげたかったという、後の人たちの悔いがこうした神社を作らせたのだと思います。こうして街全体で郷土の偉人を記憶していくというのは、大切なことだと感じましたし、確かに霊魂としても、うれしいし、心休まるのではないでしょうか。
たぶん、二百年くらいは渡辺崋山さん個人をみんなで偲んできたわけですから、これはたいしたことです。短いようでとても長い歳月で、しかもこれは今後も、お城とセットで受け継がれていくでしよう。人間は愚かなこともたくさんやりますが、ずっと1人の個性をいつまでも忘れないという、地味で目立たないけど、大事なことをやれる生き物なんですね。とても立派!
今度はクルマで行きたいですね。