今年のお盆に、出雲大社に初めてお参りすることができました。有り難かったです。今度行かせてもらえる日はいつになるか、分からないけど、事あるごとにホイホイ行かなきゃ、チャンスは逃げていきますね。
コロナの第七波が来ていたのに、ササッとクルマで移動すれば大丈夫だなんて、まるで政府・財界の思うツボなんだけれど、ついつい行ってしまいました。
二泊三日での移動の最終日が出雲大社でした。そのあとは、そそくさと大阪の実家へ帰ったんですけど、あれから1ヶ月半実家にも行っていません。母はどうしているのやら、子どもや孫たちから連絡はまだかと、そればかり気にしているでしょうか。
そろそろ、大阪にも行かなくてはいけないです。
お参りの前に、取り残されて建物だけが保存されているという大社駅跡に行ってみました。地図で見たら、すぐそこという感じでしたが、実際に歩いてみると、炎天下では少ししんどかったし、ヘロヘロになりました。慣れた人ならサッとクルマを止め、サッとお社まで移動というところなんだろうけど、私は慣れてないし、駐車料金の必要なところって、あまり好きではないし、できれば無料のところに止めたくて、往生したんでした。
だったら、そんなところに行かなきゃいいのに、建物がどんなに立派なのか、見ておきたかったのです。でも、保存修理中で、建物は覆い屋ごしに見るだけで、大きさはわかりましたが、駅の中は見られませんでした。
その代わり、ホームや、留め置かれている蒸気機関車は見ることができました。ただ、あまりに何もされてなくて、このままだと、ホームも機関車もボロボロになっていきそうです。
かといって、動かすわけにもいかないし、動態保存で機関車が動かせたとしても、レールはもうすぐに切り離されています。山陰本線のレールまでは何キロもあることでしょう。とはいうものの、もしここに鉄道公園を作ろう、直通の電車を走らせよう。寝台特別観光列車の瑞なんとかを止めるようにしようとか、あれこれアイデアはあってもいいのに、すべては朽ちるままのようです。
これでは、駅舎が新しく補修され、公開されたとしても、ただの魂の抜け殻のようで、かなりの虚しさがあるかもしれません。
再びレールを敷くことはできないでしょうね。
というのも、80年代まで、東京駅を21時ちょうどに出て、朝の7:22に紀伊勝浦に着く寝台急行のことを思い出したからです。今から40年ほど前までは東京から出雲、金毘羅さん、熊野三山への寝台列車が走っていたのです。確か、お伊勢さんにも朝にたどり着く列車があったような話を聞いたことがあったので、たぶん、あったのです。出雲とコンピラさんは今でもサンライズ出雲・瀬戸という寝台特急が生き残っていて、私もいつか乗りたいと思ってますけど、サンライズ出雲も、この大社駅まで着くことができたら、どんなにかお客としてはうれしいでしょうにね。喜々としてお参りもできると思うけれど、今は、出雲市駅から電車かバスで移動するしかないようです。
寝台列車の「紀伊」は、もうかなり昔になくなったはずです。30年以上前、もっと昔になくなりました。そして、今では夜中に電車の中にいるということはとてつもなく贅沢なことになりました。それだけ夜行の列車を運営するということは、会社としても人件費もかかるし、ムダが多かったのでしょう。
国引きレリーフのある道の駅みたいなところにクルマを止めました。お社までかなりありそうで、少しだけ気が重かったけれど、そういう人たちも何人かいたので、仕方がなく日かげを選んで歩くことにしました。
神戸川を越えたところにある鳥居も工事中でした。大社駅跡といい、鳥居といい、工事中がいくつかありました。
今回の旅の大発見の島根半島が見えます。これらは四つくらいのつながった島だったそうで、そこへ大河の斐伊川からの土砂が積み重なり、出雲平野ができ上ったということでした。
それも、そんなに昔の話ではなくて、七千年前とか、そういう話でした。米子の方から境港までつながったのも川のおかげで、土砂をせき止めたのも島根半島のおかげでしたか。
現在の島根と鳥取の都市部は、すべて島根半島とそこに流れ込んでいた川たちの力で埋め立てて、出来上がっていった。そういう土地そのものの歴史があるから、ここに国を作り、暴れ川の斐伊川をヤマタノオロチにたとえ、そのいくつにも分流する恐ろしい川の流れを鎮めた為政者をスサノオにしたんでしょうか。神話はこんな風にしてできあがっていったんですね。
そんな気がしました。なかなかお参りまで行きませんけど、とにかくお参りはさせてもらったんですよ。どんなだったかな……。