夏の旅でもらってきた山陰各地の絵地図、出雲大社のところを切り取ってみました。左手が北で、右側が南です。私は右上から米子から高速道路に乗って行ってたんですが、途中でトイレに行って、すると、ナビさんが高速を降りろと言うので、降りてそのまま出雲平野を闇雲に走ることになりました。
ナビさんは、行く先を知っているみたいなんだけど、道は教えてくれるけれど、途中で道の説明なんかはしてくれないので、目の前に広がる風景をこちらが解釈するしかなくて、これは出雲平野、街はどこにあるんだろう。出雲大社は街はずれというか、海にぎりぎりのところにあるはずだから、かなり島根半島に近づかないとそこにたどり着けないのだろう。あの、有名な斐伊川はどこにあるのだろう。
そんなことを考えてたでしょうか。壁のように正面に広がる島根半島、はたして半島というべきなのか、地図的にいうと海に突き出た形になるわけだから、分類としては半島なんだけど、何だか半島というよりも、そんなに日要綱は高くないけど、海に飛び出た山脈を目の前にしている、そんな感じでした。
この出雲平野の恵みや、山のふもとにあるという島根ワイナリーなど、すべてはこの山脈のような山々が日本海の荒波をガードしてくれたおかげで、人々の暮らしが成り立つことができたみたいでした。
でも、古代のこの辺りはどうなってたのだろうと、検索してみましたら、次のような地図を見つけました。
現在の出雲大社は、この地図の矢印のところあたりです。入り江になっていて、海に開けていて、しかも斐伊川からの水があるし、人々が行き来しやすいところにはあったわけです。背後には島根半島がそびえているし、十月に全国から神様がこの海のほとりから上陸するということですが、みんな海でみそぎをされて、リフレッシュして出雲のお社にでも入られたんでしょうか。
この島根半島の地形も、この二千年くらいでもいろいろと変化があったわけですね。斐伊川は暴れる川でしたし、砂鉄を取ってたせいで天井川になっている部分もあるそうですし、流路も江戸時代に日本海に抜けるのではなく、宍道湖に流れるようにしたということでした。出口が宍道湖になったせいで宍道湖は年々歳々小さくなり、この三百年ほどで五キロほど平地が進んだということでした。あと何百年かしたら、宍道湖はなくなってすべて平野になる日も来るのかもしれません。
そうしたら、人々は、そちらに田んぼでも作るのか、街を作るのか、道路を作るのか、私にはわかりません。それとも、浚渫して土砂をどこかに捨てるのか、それとも、再び川の付け替えをして、日本海に流れるように放水路を作るのか、いろんなことが考えられそうです。
おそらく、私はナビの言うままクルマを走らせ、出雲平野をぼんやり走っている間、とうとうここまで来たという達成感に満たされていたのかもしれません。
二泊三日してここにたどり着きました。三日前に家を出たなんて、もうはるか昔のことです。お参りは、ほんの一時間足らずで済むでしょう。そうしたら、とにかく帰路につかなくてはならないし、帰るとなったら、サッサと帰るしかないのです。
気分に浸るには、一人しかいないけど、このクルマの中で、アクセルをゆるーく踏み、時々は止まり、あたりを見まわし、高架になれば遠景を見まわし、そんなことをしながら、今ここにある自分を感じていたのでしょう。
その前に、島根ワイナリーに着き、お土産のワインを少しだけ買い、さあ、あとは海の方角にあるはずの出雲大社にお参りするだけでした。