お勤めして一年目の研修旅行で鳥取砂丘・三朝温泉に行きました。
初めての砂丘は、馬の背まで行って、海を眺めて、春の初めでそれなりに寒かったと思いますが、とにかく、ここまでたどり着いた自分が不思議でした。
旅は好きだったつもりですが、日本海とちゃんと向き合ったことはなかったかもしれません。いつも断片的で、松林を抜けて海水浴場に出かけたり、カニを食べに行ったり、荒海の断崖絶壁を眺めたり、観光船に乗ったりしただけです。その海がつながっていて、江戸時代には東西南北に船が行きかっていたことなんて、想像するのは難しいのです。
馬の背、北側は深い紺色の海。東は砂丘なのか、海なのか、絶壁なのかうまく見通せない。西側は千代川が流れて今も砂丘に砂を運んでいる。かすかに鳥取の町が見えたはずです。その向こうに空港はあったんでしょうか。南は、自分がバスに乗ってやって来て、砂の中を歩いてきたところで、はるか向こうには中国山地が重なっている。
そんなところにポツンといる私たち一行、前日はそんなに飲んだわけではないけれど、相変わらずの乱チキ騒ぎで、何が観光なんだかわからないけど、これが大人の旅というものか、なんて思ってたでしょうか。
たしか、砂絵のお土産を大事に今もしまってあると思うけど、大人の旅の記念だったんですね。
それから何十年かが過ぎて、私はせっかく砂丘に自力でやって来ました。バスにも乗らず、電車にも乗らず、二日かけて真夏のお昼に砂丘にたどり着いた。
夕方だったら、もう少しのんびりと歩けたかもしれないけれど、息をするのもしんどいくらいでした。
でも、人々は馬の背をめざして歩いていたし、帰ってくる人たちもいっぱいでした。その人々の熱意にも負けて、人はこんなにして決めたことを着々とやっていくものだし、根性なしの自分は、そういう流れにもついていけない、と言い訳して、ここを去ることにしました。
ただ人々の姿をとどめておこうと何枚か群像と砂丘を撮りました。それで満足でした。
みんな仲間や家族とおしゃべりしながら、こんな過酷な環境にも耐えて、計画を実現していくのだと感心しました。
そういうのが見られただけでも、私と社会というのを考える材料にはなったと思います。
あまりに暑すぎましたし、ひとりではとても歩く気にはなれませんでした。だから、すぐに道沿いの梨販売のお店に行き、母に梨を送ることにしたんです。二十世紀は九月にならないと出ないというのを聞き、なつのしずくというのを買わせてもらいました。それが私の真夏の砂丘の旅でしたっけ……。
(しばらく、実家に行くからお休みします。また、復帰したらみなさま、よろしくお願いします!)